テレビ東京の午後のロードショーで放送された1999年のアメリカ映画「トゥルー・クライム(True Crime)」のあらすじやネタバレ、キャスト・原作情報や無料動画や見逃し配信のノーカット無料視聴方法や再放送のことなどについて紹介したいと思います。
気になる番組は何回も見たいし、TVer(ティーバー)やGYAO!(ギャオ)、加入者の多いHulu(フールー)やNetflix(ネットフリックス)など、どういったサービスで観れるんだろう?って気になりますよね?
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目次
映画「トゥルー・クライム」のあらすじ・ネタバレ
オークランド・トリビューン紙のベテラン記者エバレット(クリント・イーストウッド)は、かつては敏腕記者だったが、今は酒ぐせ、女ぐせが悪く、同僚のボブの妻とも不倫中で、仕事ではスランプが続いていた。そんなエバレットが、不慮の事故で亡くなった女性記者の仕事を引き継ぐことになる。それは死刑囚、ビーチャム(イザイア・ワシントン)にインタビューし、その夜に行われる刑の執行にも立ち会い取材するというものだった。
しかし、事件を調べるうちにエバレットは、ビーチャムの有罪に疑念を抱き始める。現場の物的証拠と証人の証言に重大な誤りがあることに気づいたのだ。死刑執行まで残り12時間を切り、エバレットは必死でその真相を掴もうとする。だが、その日は普段家庭を顧みない彼が、幼い愛娘のケイト(フランチェスカ・フィッシャー=イーストウッド)と動物園に行く約束をした日…。
仕事のあいまに何とか約束を果たそうと急ぎ動物園にケイトを連れて行ったエバレットだったが、急ぐあまりケイトにケガをさせてしまう。そんなエバレットに妻のバーバラ(ダイアン・ベノーラ)は愛想をつかす。その後、刑務所でビーチャムと面会したエバレットは、彼の無罪を確信し、さらに事件の真相に迫ろうと奔走するが…。
出演者
クリント・イーストウッド(スティーブ・エバレット)[声]野沢那智
イザイア・ワシントン(フランク・ビーチャム)[声]江原正士
ジェームズ・ウッズ(アラン)[声]池田勝
デニス・リアリー(ボブ)[声]内田直哉
映画「トゥルー・クライム」のネタバレ
スティーブ・エベレットはかつてはニューヨークで敏腕新聞記者として鳴らしていたが、現在はカリフォルニアのオークランド・トリビューン紙に勤め、飲酒と女性問題で今ではすっかり閑職に追いやられている。
ある夜、若い同僚のミシェルが交通事故で急死したため、翌日、エベレットはミシェルの仕事を引き継ぐことになった。それはその日死刑が執行されることになっている殺人犯フランク・ビーチャムの最後のインタビュー取材をすることだった。ビーチャムはコンビニの女性アルバイト店員を射殺した罪で死刑判決を受けていた。殺された女性は妊娠していた。ビーチャムは彼女に金を貸しており、その返済を巡ってトラブルになり、犯行に及んだものと見られていた。
エベレットは事件現場を訪れ、目撃者のポーターハウスとも会うが、銃を見たという証言は嘘だと気づいた。エベレットは刑務所へ赴き、インタビューの名目でビーチャムから話を聞いた。それによると、あの日彼はステーキソースを買いに店に行き、被害者の女性と会った。彼女は借金の返済を延ばしてくれと頼み、彼は快く応じた。彼がトイレを借りている間に賊と彼女の言い争う声と銃声を聞いた。トイレから出ると、誰かが裏口から出て行き、彼女が倒れていた。彼は必死に彼女の蘇生を試みるが、そこへポーターハウスが入ってきた。彼は思わず裏口から逃げてしまい、それを主婦に目撃されてしまう。彼は銃など持っていないし、被害者と口論などしていないと言った。
ビーチャムの無罪を確信したエベレットは事件の洗い直しに取りかかる。残り時間はわずか十二時間。担当検事に話を聞きに行くが、まったく相手にされない。が、現場にはもう一人目撃者がいたことが判明。販売機でコーラを買っていた少年がビーチャムを見たと言う。エベレットはその少年が鍵だと悟る。しかし警察に問い合わせても、誰も少年の目撃者のことは知らなかった。
事故死したミシェルの家を訪ね、取材資料を調べると、少年の名前と住所が判明。エベレットはそのウォレンという少年の家を訪ねたが、ウォレンの祖母が出てきて、ウォレンは三年前に刺し殺されたと言った。エベレットは自分の敗北を悟り、落胆する。
エベレットが酒場でやけ酒をあおっていると、テレビで事件に関する番組をやっていた。被害者の写真が映し出されると、彼女の胸にはロケットがかかっていた。ウォレンの祖母が持っていたロケットと同じものだった。その瞬間、エベレットには事件の真相が分かった。死刑執行まであとわずか三十分。エベレットは車を飛ばしてウォレンの家に向かう。刑務所ではビーチャムの死刑執行の準備が粛々と進んでいた。
ウォレンの祖母は孫からロケットをもらった日のことを告白した。顔を見ただけで大変な犯罪を犯したに違いないと思ったと告げた。エベレットはウォレンの祖母を車に乗せ、州知事の家へ急行する。
刑務所ではビーチャムの死刑執行が始まった。腕からチオペンタールナトリウムが注入され、ビーチャムは昏睡に陥る。続いてパンクロニウムの注入が始まったところで、知事から電話がかかる。所長らは緊急停止スイッチを押し、執行室に飛び込んだ。
クリスマスの夜、エベレットは街で家族連れのビーチャムの姿を見かける。離れたところからお互いに目礼を送り合い、二人は別れた。
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映画「トゥルー・クライム」について
「トゥルー・クライム」は、1999年のアメリカ合衆国のサスペンス映画。監督および主演はクリント・イーストウッド。アンドリュー・クラヴァン(英語版)のサスペンス小説『真夜中の死線』(True Crime、1995年)の映画化。
公開
日本での劇場公開時、メイン上映館だった銀座シネパトスは、この作品上映時に限り“銀座シネマグナム”と館名を変えて興行を行った。
作品の評価
Rotten Tomatoesによれば、批評家の一致した見解は「『トゥルー・クライム』はキャラクター主導のミステリとして人の心をつかむ可能性を持っているが、ありきたりのストーリーとミスキャストなクリント・イーストウッドによって効力を損ねている」であり、41件の評論のうち高評価は54%にあたる22件で、平均点は10点満点中6点となっている。 Metacriticによれば、26件の評論のうち、高評価は17件、賛否混在は8件、低評価は1件で、平均点は100点満点中65点となっている。
「クリント・イーストウッド」について
「クリント・イーストウッド」は、アメリカ合衆国出身の俳優、映画監督、映画プロデューサー、作曲家。
俳優として数多くの西部劇やアクション映画に出演。自身最大の当たり役であるハリー・キャラハン役を演じた『ダーティハリー』シリーズでスーパースターの地位を不動のものとした。監督としても『許されざる者』『ミリオンダラー・ベイビー』でアカデミー作品賞とアカデミー監督賞を2度受賞するなど、ハリウッドで長年活躍してきた俳優、映画監督である。一方、カリフォルニア州カーメル市市長を1期(2年間)務めた。
幼少期
カリフォルニア州サンフランシスコのサンフランシスコ記念病院(英語版)で、クリントン・イーストウッド・シニアとマーガレット・ルースの息子として生まれる。体重が5.16キログラムの大きな赤ん坊だったため、看護師たちから「サムソン」と名付けられた。イーストウッドはイングランド・アイルランド・スコットランド・オランダの血を引いている。国勢調査の記録によると、父クリントン・シニアは1930年代に西海岸の各地で、セールスマンや探偵などの仕事を転々としながら家族を養っていたという。1940年にイーストウッド家はサンフランシスコ郡ピートモンドに移住し、イーストウッドが成人するまで同地で生活した。イーストウッドはインタビューで、世界恐慌を引き合いに出して幼少期の生活が苦しかったことを度々示唆しているが、ソンドラ・ロックはこれに対して「彼の家は決して貧しくはありませんでした。イーストウッド家は町の豊かな地区に暮らし、家にはプールがあり、家族一人一人が車を所有しており、カントリークラブにも加入していました」と主張している。
イーストウッドは、成績不良でサマースクールに通う必要があったという。彼は運動能力と音楽の才能は高く評価されていたが、成績不振のために転校を余儀なくされている。学校ではバスケットボール選手としての能力を期待されるほどだったが、イーストウッド自身はテニスやゴルフなどの個人競技に興味があり、現在でもこれらを趣味としている。オークランド・テクニカル・ハイスクール(英語版)に転校したイーストウッドは、そこで教師から演劇サークルに参加するように勧められたが、彼は演劇に興味がなかったため断っている。イーストウッドは、この頃は「速い車と尻軽女にしか興味がなかった」と語っている。ハイスクールでは自動車整備コースを受講し、自動車と航空機のエンジンの組み立てと航空機のメンテナンスを研究していた。イーストウッドは1949年1月に卒業する予定だったが、実際に卒業したかは不明である。伝記作家のパトリック・マクギリガン(英語版)は、「卒業記録は厳格な守秘義務に守られている」と述べている。イーストウッドの友人たちも「彼が学校の中で過ごしていたとは思わない。彼は他の場所で楽しい時間を過ごしていた」「彼が卒業したとは思えない」と語っている。
青年期
1949年にクリント・シニアはシアトルの工場で働き始める。イーストウッドはマリブのハウス・パーティーに参加した際に映画監督のハワード・ホークスとジョン・フォードに出会い、その後の彼に大きな影響を与えた。その後、イーストウッドはシアトルに移住し、オレゴン州スプリングフィールドのパルプ工場で父と共に働き始める。また、ライフガードとしても働いている。1951年にアメリカ陸軍に召集されてフォート・オードに派遣され、訓練時のライフガードとして勤務する。同年9月30日、イーストウッドの搭乗していたA-1が、サンフランシスコ近郊の海に墜落する事故が発生した。イーストウッドとパイロットは無傷で海岸に辿り着いたが、彼はこの事故を振り返り「死ぬかもしれないと思った。しかし、私は海岸のライトを見ながら泳ぎ続けた」と語っている。彼は陸軍に在籍中に、後に俳優として成功するリチャード・ロング(英語版)、マーティン・ミルナー、デビッド・ジャンセンと友人になっている。
1952年春にシアトルに戻りライフガードの仕事をするが、生活費に乏しく友人もいなかったためロサンゼルスに移住し、ビバリーヒルズでアパート経営をしながら夜間はガソリンスタンドで働いた。1953年6月にブラインドデートで22歳の秘書マーガレット・ネヴィル・ジョンソンと出会う。二人はクリスマスの直前に結婚し、カーメル・バイ・ザ・シーにハネムーンに向かった。その後、イーストウッドは映画に出演する傍ら、短期間ロサンゼルス・シティー・カレッジに通い、住宅用プールの土台を掘る仕事をしながら生活していた。
映画界への進出
ユニバーサル映画の記録によると、フォート・オードでの撮影中にイーストウッドを見かけたエージェントが、監督に会うように勧めたとされるが、彼の伝記では同地に滞在していたチャック・ヒルという人物がハリウッドに彼を紹介したとされる。ヒルはロサンゼルスでイーストウッドと出会って以降親しい関係となり、彼の才能を見込んでカメラマンのアーヴィング・グラスバーグ(英語版)に紹介した。グラスバーグは、イーストウッドに対して「伝統的に映画で成功していったハンサムな若者の一種」と好感を抱き、監督のアーサー・ルビン(英語版)に、イーストウッドのアルバイト先のガソリンスタンドで彼に会うように依頼した。イーストウッドに会ったルビンも、グラスバーグと同様に「背が高く身体が細く、とてもハンサムだ」と好印象を抱いた。
ルビンは早速オーディションの手配をするが、「彼は素人だ。どの道に進み、何をするのか分かっていなかった」と述べており、イーストウッドの売り込みにそれほど熱心ではなかった。それでもルビンは希望を持つようにイーストウッドを励ましてドラマの養成コースに参加させ、イーストウッドは1954年4月に週給100ドルでユニバーサルと契約を結んだ。イーストウッドの妻マーガレットを含むハリウッド業界の人間は、「ルビンは同性愛者で、イーストウッドと性的な関係を持っていた」と疑っていた。ユニバーサルとの契約後、イーストウッドは端役として役をこなすが、時にはスタッフの前で全裸で演技をすることもあった。仕事を始めた当初、イーストウッドは素っ気ない演技しかできず、スタッフからの評判は芳しくなかった。俳優仲間のジョン・サクソンは、「一種の干し草のようなもの……薄い喉仏で、台詞を言うのが遅く、非常に不気味だった」と述べている。イーストウッドはユーモアのセンスがあり、女優が出演しない映画では演技できたが、主役に選ばれることはなく、初期の活動の成功には結び付かなかった。
駆け出し時代
1954年5月、イーストウッドは『六つの橋を渡る男(英語版)』の強盗役のオーディションに参加したが、監督のジョゼフ・ペフニー(英語版)は彼の演技に感銘を受けず、結果は落選となった。その後、立て続けに『ブリガドーン(英語版)』『The Constant Nymph』『進め!ベンガル連隊(英語版)』『七年目の浮気』『異教徒の旗印(英語版)』『Smoke Signal』『Abbott and Costello Meet the Keystone Kops(英語版)』のオーディションを受けるが、全て落選している。最終的にジャック・アーノルドの『大アマゾンの半魚人』の続編である『半魚人の逆襲』で端役をもらい映画デビューを果たした。イーストウッドに与えられた役は「研究員ジェニングス」という役で、1954年7月30日にユニバーサル映画第16スタジオで撮影が行われたが、彼が出演しない主要シーンはフロリダ州マリネランドで撮影された。その後、イーストウッドはマーガレットと共にアパートを引き払い、ユニバーサル通りのアパートに引っ越したが、このアパートには女優のギア・スカラ(英語版)とリリー・カーデルも住んでいた。このアパートにはアニタ・エクバーグが水着の写真撮影を行ったプールがあり、イーストウッドは水泳で身体を鍛えた。
1955年2月、イーストウッドはルビンの『Francis in the Navy(英語版)』に端役として出演して週給が300ドルに上がり、9月には『Lady Godiva of Coventry(英語版)』に端役として3週間撮影に参加した。その後、再びアーノルドが監督した『世紀の怪物/タランチュラの襲撃』に戦闘機隊長役で出演した。同年5月には『ネバー・セイ・グッドバイ(英語版)』の撮影に4時間参加し、8月には『Star in the Dust』に牧童役として西部劇映画に初出演した。7月2日にはテレビドラマ『Allen in Movieland』に初出演したが、10月25日にディレクターのロバート・パーマーによってユニバーサル映画から解雇された。イーストウッドはパーマーの仕打ちを忘れず、後にマルパソ・プロダクション(英語版)を設立した際に、入社を求めたパーマーを門前払いしている。
イーストウッドは俳優仲間のベティ・ジェーン・ハウワースからの助言を受け、アダム・ウェストやリチャード・ロングの代理人を務めていたマーシュ・エージェンシーの広報担当者に接触した。同時期、イーストウッドはルビンの『The First Traveling Saleslady(英語版)』に出演している。イーストウッドとルビンの関係はその後も続き、『二人の可愛い逃亡者』や1960年代に彼が製作したテレビドラマに度々出演しているが、彼が俳優として成功した後は疎遠となり、『許されざる者』でオスカーを受賞した時まで再会することはなかった。この時期、ルビンからの出演依頼がイーストウッドの生活を支えていた。1956年1月にはABCのテレビドラマ『Reader’s Digest』に出演し、同年後半からはテレビドラマ『ハイウェイ・パトロール』にギャング役で出演している。1957年のテレビドラマ『ウェストポイント』に士官学校生徒役で出演し、同時期に『Wagon Train(英語版)』『Death Valley Days(英語版)』にも出演している。1958年に『Navy Log(英語版)』に海軍士官役で出演し、1959年には『マーベリック』に出演した。
この間、イーストウッドはプール工事など複数の仕事をしながらジムに通いトレーニングをしていた。また、ニック・アダムス、アイリッシュ・マッカラ(英語版)、ジェイミー・ファー(英語版)などの俳優仲間と共にジャック・コスリンの主催する演技教室に通い指導を受けた。この頃、イーストウッドは妻や友人たちと共に夕食に出かけた際に、レストランの前で銃を持った強盗に襲われている。友人たちは逃げようとしたが、イーストウッドはその場に留まり、「引き金を引け。その前にお前たちを殺してやる」と威嚇し、強盗を追い払ったという。別の日には、友人とバーにいた際に船乗りのグループと喧嘩になり、「ハリウッドの馬鹿野郎」と罵られたうえに殴られたため、イーストウッドは船乗りたちに反撃して二人を病院送りにしている。
イーストウッドは『翼よ! あれが巴里の灯だ』の主演オーディションに参加するが、結果は(珍しく製作発表と同時に自らを売り込んだ、当時マネーメイキングスタートップ10常連でもある)ジェームズ・ステュアートが主演決定、落選した。しかし、彼は『壮烈! 外人部隊(英語版)』でパイロット役として出演し、『Ambush at Cimarron Pass(英語版)』では元奴隷キース・ウィリアムズ役として出演した。『Ambush at Cimarron Pass』ではリーガル・フィルムのスタジオで9日間撮影に参加したが、彼はこの映画には不満を感じており、映画が公開された際には「本当に落ち込んだ」と語り、俳優を辞めることを考えたという。
『ローハイド』でのブレイク
イーストウッドの代理人であるビル・シフリンは、CBSが1時間の西部劇ドラマを製作する話を聞き、彼にスタジオに顔を出すように助言した。イーストウッドは脚本家のソニア・チェルノスと会い、その際にハンドボール選手のロバート・スパークス(英語版)に出会う。スパークスは「あなたの身長はどれくらいですか」と尋ね、イーストウッドは「6フィート4インチです」と返答した。プロデューサーは事務所にイーストウッドを呼び、後にチャールズ・マーキス・ウォーレンに紹介され、彼の目の前で『牛泥棒』で主演を演じたヘンリー・フォンダの台詞を暗唱させられた。その1週間後、イーストウッドはウォーレンがプロデューサーを務める西部劇テレビシリーズ『ローハイド』への出演が決定し、彼の俳優としてのキャリアの転機となった。
撮影は1958年からアリゾナ州で始まり、イーストウッドはエリック・フレミングが演じるギル・フェイバー隊長の補佐役ロディ・イェーツ副隊長を演じた。二人の間には確執があったとされているが、イーストウッドはこれを否定しており、フレミングが事故死した際には「彼を尊敬していた」とコメントしている。また、イーストウッドはキャリアの転機となった作品自体には満足しているが、ロディ・イェーツというキャラクターについては不満を抱いていた。撮影当時、イーストウッドは28歳で、自身よりも若いロディを演じることに抵抗を感じており、ボーイッシュな彼について「平野の馬鹿」と呼んでいた。共演者のポール・ブラインガー(英語版)も、「彼(イーストウッド)は10代の青年を演じることに非常に不満を抱いていた」と語っている。
イーストウッドはシフリンとの契約を終了させ、1961年から1963年までの間はレスター・サルコウと代理人契約を結んでいた。サルコウとの契約に関しては、アーヴィング・レナード(英語版)とフランク・ウェルズが重要な役割を果たし、彼らは1話当たり750ドルの給与をイーストウッドに約束した。イーストウッドは手に入れた給与ですぐに高級車を買おうとしたため、浪費を懸念したレオナルドによって預金を厳しく管理されていた。イーストウッドとマーガレットは質素に暮らしていたが、後にビバリーグレンに家を買い引っ越した。
『ローハイド』は放送開始から3週間で番組ランキングのトップ20にランクインする人気番組となった。その後も人気は上昇し、1960年10月から1961年4月までの番組ランキングで6位となっている。しかし、撮影はハードで、イーストウッドは最初の年の4月から7月の間は週6日間、1日平均12時間撮影に参加していた。また、一部のディレクターからは「外見頼りで十分な演技が出来ていない」という批判も受けた。ジャーナリストのジーン・ファウラー・ジュニア(英語版)からは「演技が不自然」、共演者のトミー・カーは「彼は怠け者だ。毎朝30分から1時間は遅刻して来るので、朝一の撮影を一緒に演じたことがない」と語っている。この遅刻癖について、共演者のカレン・シャープ(英語版)は「女性関係が原因の可能性がある」と語っており、彼女によるとイーストウッドは既婚女性と共にトレーラーの中に引きこもり、疲れた様子で午後の撮影に参加していたという。イーストウッドは『ローハイド』の出演を通して俳優としての素質を開花させ、ユーモアと情緒的ニュアンスのバランスの取れた演技を習得したが、スタッフや共演者からは、その成長を気付かれることはなかった。
イーストウッドは多忙なスケジュールの中で『ローハイド』の曲「A Drover’s Life」「Beyond the Sun」のレコーディングを行い、音楽にも熱意を見せた。彼はジャズの他に、カントリーソングやウェスタンソングにも関心を持っていた。1963年に作詞家のカル・マン(英語版)は、「歌手としては大した成功はしない」と述べたが、イーストウッドは撮影のオフシーズン中にブラインガー、シェブ・ウーリー(英語版)と共に音楽フェスティバルに参加し、1万5,000ドルを稼いでいる。
第3シーズンの撮影が始まった頃、ハリウッドの記者たちは、「イーストウッドに疲れが見えている」と憶測し始めたが、イーストウッドはこの間も様々なテレビドラマに精力的に出演している。『ローハイド』はロン・チェイニー・ジュニア、メアリー・アスター、ラルフ・ベラミー、バージェス・メレディス、ディーン・マーティン、バーバラ・スタンウィックなどの人気俳優が出演し人気を維持したが、1963年末には脚本に新鮮味が薄れ人気に陰りが見え始めた。シリーズは1965年まで続いたが、イーストウッドのキャリアは1963年後半に転換することになる。
『荒野の用心棒』
1963年後半、当時は無名に近かった映画監督セルジオ・レオーネから、フレミングに対してスペインで撮影する西部劇映画『The Magnificent Stranger』(『荒野の用心棒』の前段階の題名)への出演がオファーされる。しかし、出演料が安かったことや、ハリウッドの大作映画への出演を望んでいたことから、フレミングはオファーを断った。レオーネは、フレミングの他にチャールズ・ブロンソン、スティーヴ・リーヴス、リチャード・ハリソン(英語版)、フランク・ウォルフ(英語版)、ヘンリー・フォンダ、ジェームズ・コバーン、タイ・ハーディンにも主演のオファーをしたが、いずれも断られている。プロデューサーはより出演料の安い俳優のリストを作成してハリソンに助言を求め、彼はカウボーイを演じ切れる人物としてイーストウッドを推薦した。ハリソンは後に「私の映画界への最大の貢献は、『荒野の用心棒』に出演しなかったことと、イーストウッドを推薦したことです」と述べている。レオーネは、ローマのウィリアム・モリス・エージェンシーのエージェントであるクラウディオ・サルトリの助言を受けて『ローハイド』第91話を視聴した。レオーネはフレミングの演技を見ようとしたが、イーストウッドの演技を見て「私を何よりも魅了したのは、クリントの外見でした。彼はフレミングから演技の全てを盗み、その怠惰な姿はハッキリと見えました」とコメントした。
出演オファーは、レナードを通じてイーストウッドに伝えられた。しかし、レナードは出演に反対したため、1950年代からイーストウッドを支援してきたマーシュ・エージェンシーのルース・マーシュとマーガレットは、レナードを出し抜こうと計画し、マーシュ・エージェンシーのイタリア仲介業者であるジョリー・フィルムに連絡を取った。当初、イーストウッドは『ローハイド』の出演に疲れ果てており、数か月間休暇を取りゴルフをして気分転換をしたいと考えていたため、出演に難色を示した。しかし、イーストウッドは脚本を10ページ読んだところで、映画が黒澤明の『用心棒』をモデルにしていることに気付き、脚本は残酷であるが非常に知的であるという感想を抱いた。映画の可能性を感じたレナードも出演を許可し、イーストウッドには11週間の撮影期間と渡航費用1万5,000ドルが与えられた。イーストウッドは映画出演を「『ローハイド』の撮影から逃れて休暇を楽しむ機会」と捉えており、アメリカを出国する前には出演料を当て込んでメルセデス・ベンツの購入契約を結んでいる。
1964年5月、イーストウッドはローマに到着して映画スタッフや記者と会うが、その場にレオーネはいなかった。その日の午後にレオーネと対面するが、彼はイーストウッドに感銘を受けたものの、アメリカンスタイルの服装には嫌悪感を抱いたという。しかし、レオーネは後に「クリントはアメリカの学生と同じような趣味の悪い服装でやって来たが、私はあまり気にしなかった。私が興味を抱いたのは、彼の顔と、彼が歩む道でした」と述べている。イーストウッドはハリウッド・ブルーバード(英語版)で購入した黒のジーンズ、サンタモニカで購入した帽子、ブレスレットを身に付けて撮影に臨んだ。また、トレードマークの黒い葉巻はビバリーヒルズから取り寄せたものだが、イーストウッドは煙草を吸わないため煙の臭いを嫌っていた。レオーネはこの姿を「名無しの男」のイメージとして強調した。製作にはイタリア・スペイン・西ドイツが参加していたため、現場では複数の言語が飛び交う状況だった。その中で、イーストウッドはイタリア人キャストやスタントマンのベニート・ステファネリィの通訳を担当した。撮影の大半はスペインで行われ、その間、マーガレットはトレド・マドリード・セゴビアを観光して過ごした。
配給会社は、無名の監督であるレオーネの映画には関心を抱かず、映画の売り上げが悪い9月に映画を公開させた。『荒野の用心棒』はイタリアの批評家からは酷評されたが、人気は徐々に高まりイタリアで400万ドルの収益を上げた。しかし、レオーネたちが東宝から「無許可によるリメイク」として訴訟を起こされたため、アメリカでは1967年まで公開されなかった。このため、アメリカではイーストウッドの知名度には変化が見られず、また、ハリウッドではイタリア映画への出演に偏見があったため、彼のキャリアも一段低いものに見られていた。
『夕陽のガンマン』
レオーネは再びイーストウッドを主演に雇い、『夕陽のガンマン』を製作した。しかし、前作の製作会社ジョリー・プロダクションと資金を巡りトラブルになったため、レオーネはアルベルト・グリマルディ(英語版)と共に製作を進めた。グリマルディは製作費として35万ドルを支出し、ルチアーノ・ヴィンチェンツォーニは9日間かけて「麻薬中毒者の銀行強盗犯を追う二人の賞金稼ぎ」という内容の脚本を書き上げた。イーストウッドには5万ドルとファーストクラスの航空券が支給されたが、彼は前作で葉巻を吸って気分が悪くなったこともあり、再び映画で葉巻を吸うことになるのを嫌がったという。撮影は1965年の春から夏にかけて行われ、ローマの映画スタジオで撮影した後、スペインに向かい撮影を続けた。撮影中、イーストウッドはヴィンチェンツォーニと親しくなり、イタリア料理を楽しみながら女性客から注目を浴びる日々を過ごしていた。ヴィンチェンツォーニは英語が堪能で、レオーネを連れてローマの映画館に向かい、そこでアメリカ映画界の重鎮であるアーサー・クリム(英語版)とアーノルド・ピッカーに売り込んだ。二人は映画の内容に満足し、『夕陽のガンマン』と構想中の次回作の権利を買い取り90万ドルの契約を結び、前金として50万ドルを渡した。
同じ頃、『ローハイド』はフレミングが降板し、番組自体も『コンバット!』の人気に押されて放送が終了した。放送終了後、イーストウッドはディノ・デ・ラウレンティスと会い、彼の妻シルヴァーナ・マンガーノが主演を務める『華やかな魔女たち』への出演契約を結んだ。1966年後半にローマを訪れたイーストウッドは、2万ドルの出演料を受け取り、新しいフェラーリを購入している。映画は短編で、イーストウッドが出演したのは第5話「またもやいつもの通りの」の自堕落な夫役であり、ニューヨーク・タイムズからは「パフォーマンスが全くない」と批判された。この後、イーストウッドはパリを訪れ、「またもやいつもの通りの」で監督を務めたヴィットリオ・デ・シーカと共に『夕陽のガンマン』の宣伝を行った。彼はフランスでの人気を確立しており、「新しいゲイリー・クーパー」と呼ばれていた。パリでは俳優のピエール・ルシエントやカトリーヌ・ドヌーヴと交流した。
『続・夕陽のガンマン』
『夕陽のガンマン』公開の2か月後、イーストウッドはドル箱三部作の最終作『続・夕陽のガンマン』の撮影に入った。主要キャストには前作で共演したリー・ヴァン・クリーフの他にイーライ・ウォラックが起用され、レオーネが引き続き監督を務めた。当初、イーストウッドは脚本に不満を感じ、ウォラックの方が活躍するという懸念を抱いており、レオーネに対して「最初の映画で私は一人でした。次の映画では二人、ここでは三人です。このままいくと、私はいずれ騎兵隊と出演することになるでしょう」と伝えている。最終的に、イーストウッドは出演料25万ドル、フェラーリの新車1台、アメリカ国内収益の10%を受け取ることで出演に同意したが、同時期に彼の広報戦略を巡り、三部作への出演を支援していたマーシュと、彼の影響力を削ごうとするウィリアム・モリス・エージェンシーとレオナルドとの間に対立が起きた。これに対し、イーストウッドはウェルズの助言を受けてマーシュの仕事をマネージャーの職務に限定して影響力を排除し、今後の広報をガットマン&パムのジェリー・パムに任せた。
1966年5月中旬から撮影は始まり、ローマのスタジオで行われた。その後はスペインに移動し、ブルゴス近くの高原とアルメリアで撮影が行われた。この映画では、砲撃にさらされる町や広大な刑務所、南北戦争の戦場など、前二作よりも大規模なセットが必要となり、数百人のスペイン軍兵士がクライマックスシーンの墓地建設のために動員された。撮影監督はトニーノ・デルリ・コリが務め、彼は光に注意を払うようにレオーネに促された。橋を爆破するシーンの撮影中、イーストウッドとウォラックは橋の側に隠れている設定だったが、イーストウッドは爆発に巻き込まれる危険性を訴え、「私はこれらのことをよく知っています。爆発物から離れましょう」とウォラックに伝えた。数分後、橋は爆破されたがスタッフがカメラを回していなかったため、レオーネは激怒し、橋も新たに作り直す必要があった。スペイン軍の協力で橋は作り直されたが、この一件で製作費が30万ドル余分にかかってしまった。撮影の合間、イーストウッドはウォラックを連れてマドリードを訪れ、ゴルフの練習をして過ごした。また、『ガンマン無頼』を撮影中だったフランコ・ネロと出会い、交流を深めている。
レオーネは様々な角度から同じシーンを何度も撮影することが多く、細部にまでこだわる完璧主義者だったが、そのために出演者は大変な疲労感を味わった。レオーネは大食漢であり、撮影のストレスを食事で癒していた。イーストウッドは、レオーネの大食漢振りを見て「ヨセミテ・サム」とあだ名を付け、彼をジョークのネタにすることで日々のストレスを発散していた。レオーネの映画に出演したのはこれが最後であり、『ウエスタン』への出演依頼が来た際には断っている。レオーネはイーストウッドの自宅に脚本を持って訪れ交渉したが、彼は出演を辞退したため、代わりにチャールズ・ブロンソンが起用された。数年後、レオーネは『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』の撮影中に、主演のロバート・デ・ニーロに対して「クリントは爆発と銃撃の間を夢遊病患者のように歩き回り、まるで大理石のように冷静だった。ボビー(デ・ニーロ)は俳優だが、クリントはスターだ。ボビーは苦しむが、クリントは欠伸をする」と語っている。
ドル箱三部作は、1967年までアメリカでは公開されず、三部作は同年に続けて公開された。『続・夕陽のガンマン』はヴァン・クリーフの出演シーンが20分ほどカットされたものの、三部作は興行的に成功し、イーストウッドの俳優としての名声はアメリカ国内でも確立された。しかし、興行的な成功にも関わらず、三部作は批評家からは酷評された。ニューヨーク・タイムズのレナータ・アドラー(英語版)は『続・夕陽のガンマン』を「その独特の映画の中で、最も高価で敬虔な忌まわしい映画」と批評し、バラエティは「攻撃的でサディスティックな映画」と批評した。しかし、酷評の中でもヴィンセント・キャンビーやボズレー・クラウザーは、名無しの男を演じるイーストウッドの孤独や涼やかさを表現した演技力を評価している。
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