【LOVE LOVE あいしてる】見逃し配信・動画無料視聴方法!2022最終回

フジテレビで放送されているバラエティ番組「LOVE LOVE あいしてる(ラブラブあいしてる)」2022最終回吉田拓郎卒業スペシャルの無料動画や見逃し配信などの無料視聴方法、再放送について紹介したいと思います。

気になる番組は何回も見たいし、TVer(ティーバー)やGYAO!(ギャオ)、加入者の多いHulu(フールー)やNetflix(ネットフリックス)など、どういったサービスで観れるんだろう?って気になりますよね?

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「LOVE LOVE あいしてる」KinKi Kids&吉田拓郎の歴史

人気デュオ・KinKi Kidsとシンガーソングライター・吉田拓郎という異色のタッグで人気を博した音楽バラエティ番組『LOVE LOVE あいしてる』(フジテレビ系)が、5年ぶり、一夜かぎりの復活を果たす。今年、52年のアーティスト活動に終止符を打つことを表明している吉田にとっては、これが最後のテレビ出演。同番組も、番組開始から26年の歴史に幕を下ろす。

吉田が「今、会いたい人」を呼んだ今回の収録。そのひとりが、1995年生まれ、同番組放送開始時には1歳だったあいみょんだ。彼女の最新曲「初恋が泣いている」の歌収録からスタート。曲のシメでは、音楽監修をつとめる武部聡志ら番組オリジナルバンドLOVE LOVE ALL STARSのメンバーと吉田が目で合図を交わし、その背をKinKi Kidsが見つめる。なんとも懐かしい光景だ。

トークセッションでは、新型コロナウイルス感染対策として4人のあいだに一定の距離が設けられた。吉田は、今回あいみょんに会いたかった理由として、歌詞に共感したことなどを挙げた。卒業を表明している吉田の気持ちを変えようと、あいみょんの曲を聴いてまた新曲を作ってほしいと言った堂本光一だが、吉田の最新アルバム『ah-面白かった』の制作を決めた背景には、すでにあいみょんらの世代から受けた刺激があったと明かされた。

吉田はかつて、自身の詞について世間からあまり好ましくない評価もあったというが、それが次第に世に浸透していったと振り返る。あいみょんの綴る詞にも近いものを感じるといい、積極的に質問をぶつけ、話題は音楽のルーツやギターの持ち方にも波及。

そしてゲストの「LOVE LOVEなもの」を写真で紹介するコーナーへ。あいみょんの「LOVE LOVEなもの」に対し、ツッコミを入れるKinKi Kids節は相変わらず。

続いて、レギュラー出演していた篠原ともえを交え、番組の過去を振り返る。名物コーナー「篠原ともえのプリプリプリティ!」の映像を見ながら、それぞれがもっとも印象に残ったゲストや、当時ならではの自由さ、ゲストとのさまざまなエピソードが語られた。

歌手ではないゲストも、生バンドで歌を披露するというのが同番組の革新的だった点。4人が選んだ名演集には、番組ファンなら納得の4曲がセレクトされていた。吉田はハワイでのロケが本当に楽しかったようで、ハワイに行く番組ができたら呼んでほしいとKinKi Kidsにお願い。この日は、吉田の発言から少しでもカムバックの意欲を感じるたび、決して聞き逃さなかった二人だった。また、篠原が持参した当時のプライベートビデオは、まさにお宝映像。こちらも必見だ。

続くセッションは、KinKi Kidsをメインボーカルとし、吉田の名曲「落陽」を。実はもう1曲、ある曲のセッションを予定していたのだが、吉田が「これぞ吉田拓郎」という理由から、今回は「落陽」に決定したという。今回は演奏されなかった曲のワンフレーズを口ずさんだ吉田に光一と剛が瞳を輝かせる場面もあった。

過去を振り返ったあとだからこそ、同番組で本格的にギターと向き合い始めたKinKi Kidsが「落陽」を演奏する姿は実に感慨深い。剛のギターソロも必聴だ。歌収録を終えると、サプライズゲストとして明石家さんまが登場。吉田を敬愛する明石家のトークは止まる気配がなく、いまやベテランのKinKi Kidsも、二人に挟まれてはたじたじだ。

明石家は、かつて気分屋だったという吉田の若かりし頃のエピソードを明かしながら、愛と寂しさゆえに言いたい放題。そんな吉田を光一がかばうと、さんまの熱はKinKi Kidsにも飛び火。終わりの見えない明石家のトークに、スタジオは困りながらも大笑いだ。

続いてのゲストは、同番組に三度目の登場となる木村拓哉。忌野清志郎との共演も含め、いずれの出演回も覚えているという木村に、吉田もまた、木村の初登場をはっきり覚えているという。そのとき木村を見て感じたことや、今回また会いたいと思った理由、木村のどういった点が好きかを熱く語る吉田。そのまっすぐな言葉に、木村は恐縮しきりだ。木村を慕うKinKi Kidsは今回、木村の出演に驚いたという。

続いて、カプセルトイを引いてランダムに質問に答える、懐かしのコーナーへ。あるテーマについて、木村が自身の「ダサさ」をあけすけに話してくれたのだが、KinKi Kidsのなかで木村は、いつまでもかっこいいお兄さんであるよう。その後も、木村のふとした仕草に顔を見合わせてカッコ良いと言い合うなど、ほほえましい場面もあった。「そこを広げるのか?」という話題こそ盛り上がる、同番組らしさが垣間見えた収録でもあった。

木村が選んだ「LOVE LOVEなうた」は、KinKi Kidsのデビュー曲「硝子の少年」。選んだ理由と、各方面への配慮も木村らしい。バックダンサーに徹したい木村と、一緒に歌いたいKinKi Kids。議論の末、木村をバックに二人が歌うことになったスペシャルなパフォーマンスは、オンエアでのお楽しみだ。また当時、実際にKinKi Kidsのバックダンサーをつとめていた生田斗真、風間俊介も、舞台出演を終えて駆けつけた。歌収録の後には、木村・生田・風間のリハーサル時のエピソード、木村とともにパフォーマンスができたKinKi Kidsの興奮など、和気あいあいとした様子で、話が止まらない。木村のInstagramに掲載された写真からも、あくまでKinKi Kidsをメインに立たせようと提案する木村の、優しさとサービス精神が見えた。

収録はそのほか、吉田を敬愛する女優・奈緒が歌収録に参加。また、KinKi Kidsと吉田の共作曲「Sayonara あいしてる」を初披露したのち、最後にはKinKiから吉田に花束が送られた。長丁場であったことを感じさせない、終始あたたかな雰囲気で収録を終えた。

この日の収録は無観客であることも影響し、ついつい深い話になった演者たち。ゆえに、自らの美学を持ちつつも、エンターテインメントの変化や若い世代の文化に柔軟な、吉田の声を聞くことができた。また、そうした現在の姿があるのは、まぎれもなくKinKi Kidsとの出会いがあったからだと吉田は言っていた。

17歳と50歳のときに出会い、いつしか生涯の友となったKinKi Kidsと吉田拓郎。彼らの歴史と、新しい関係のはじまりを記録した同番組を、ぜひその目に焼き付けてほしい。

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「LOVE LOVE あいしてる」について

「LOVE LOVE あいしてる」は、フジテレビ系列で1996年10月19日から2001年3月31日まで放送されていた音楽バラエティ番組。毎週土曜日 23:30 – 翌0:00(JST)に放送されていた。 『堂本兄弟』の前身番組に当たる。

当番組は、毎週1組のゲストを迎え、トークコーナーと音楽コーナーで構成される。スポンサーは前番組の流れから引き続き、Panasonicの一社提供で、歴代番組と同様にKinKi Kidsが同社製品「デジカム」などのCMに出演していた。ゴールデンタイム・プライムタイムでも不定期で特別番組が数回放送され、主にトークコーナーの総集編などがメインだった。

KinKi Kidsは当番組で、吉田拓郎やLOVE LOVE ALL STARS等、大物ミュージシャンからギターの教えを請う等多大なる影響を受け、音楽的にも成長したと言われている。

なお、1999年の大晦日から2000年元旦まで、この番組を軸とした年末長時間番組枠『ワールドカウントダウンスーパースペシャル24時間まるごとライブLOVE LOVE2000~世界中の子供たちに僕らが愛でできること』を行っている。音楽番組であるのにも関わらず、明石家さんまや志村けんら大御所芸人もゲスト出演している(とはいえ、さんまは当時のレギュラー番組『明石家マンション物語』、志村も当時の特別番組『志村けんのバカ殿様』の各番宣で、吉田拓郎と縁があることがきっかけとして出演したものである)。また番組内の31日23:00 – 1日5:30には『めちゃ2イケてるッ!』とのコラボ番組『めちゃ2あいしてるッ!-I LOVE you very much!-』を放送した。

番組成立の経緯
前番組である『めちゃ2モテたいッ!』が20時に移るその空いた23時30分の枠で、KinKi Kidsで愛をテーマにした音楽番組をやらないかとプロデューサーきくち伸が編成から打診されたのがこの番組のきっかけである。

当初、KinKi Kidsと組む予定だったのは玉置浩二であったが、スポンサーの松下電器産業(のちのパナソニック)とのプレゼンテーションで「玉置浩二はソニーのアーティストでは」とパナソニック側が難色をしめしたため、プロデューサーのきくち伸が、とっさの思いつきで自身がファンだった「吉田拓郎ならどうでしょうか?」と言ってしまい「吉田拓郎ならいいんじゃないか」ということになったのが吉田の起用の経緯だった。

元々きくちには吉田拓郎のテレビ番組を作りたいという希望があり、吉田も『ザ・ヒットパレード』のような音楽番組をやってみたいという希望があった。しかし、吉田にはテレビに対する恐怖心があり、出演交渉は難航した。きくちはそれを除くのに苦心したという。また当時はCDデビューもしていなかったジャニーズJr.のKinKi Kidsと組まされることにも抵抗したが、結局KinKi Kidsありきの番組で、きくちからも「拓郎さんひとりでは数字がとれない」とはっきり言われるなどして説得された。

吉田がこのようなタイプの番組にレギュラー出演するのは非常に珍しいとして話題を呼び、一方で吉田は”テレビ出演拒否の本尊”でもあったため大きな批判も受けた。若い世代には吉田の情けないおじさんキャラが受けたが、彼がフォークの神様であった往年の時代を知る団塊の世代には、あまりの変貌ぶりに大きな衝撃と晒し者にされたことへの反発も大きかった。ただし、吉田本人は「KinKi Kidsには感謝している」「番組に出演して本当に良かった」と後のインタビューで答えている。

番組当初、世間からは「吉田拓郎とKinKi Kidsは違和感がある」、「3ヶ月もてばいい」などと言われていたが、当時『ミュージックステーション』、『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』『うたばん』等、当て振りの音楽番組が全盛期を迎えていた中、ハウスバンドである「LOVE LOVE ALL STARS」を結成し一流のミュージシャンを揃える等、生演奏に拘った姿勢が好評を得て4年半も続く人気番組となった。

レギュラー放送終了
番組は視聴率が大きく落ちた訳でもなかったが、突如打ち切りとなった。吉田は著書の中で、パナソニック側から「もう長く放送されたので、そろそろいいのではないか」と打診されたと書いている。

2001年3月31日に生放送で「LOVE LOVE ALL STARS解散ライブ」を行って番組が終了。約5年間の放送の歴史に幕を下ろした。同年4月から時間帯とKinKi Kids以外の出演者を一新して後継番組『堂本兄弟』がスタートした。

特番時代
2006年9月29日には、『LOVE LOVE堂本兄弟10周年生スペシャル』と題した『堂本兄弟』との合同による特別番組を放送。『LOVE LOVE あいしてる』の第1回ゲストだった安室奈美恵らをゲストに招き、『LOVE LOVE あいしてる』から『(新)堂本兄弟』でのライブ部分の総集編をカウントダウン形式で放送した。第1位は『LOVE LOVE あいしてる200回記念』の生放送で披露された吉田拓郎翻訳詞によるポルノグラフィティの「アポロ〜広島弁バージョン〜」。

2017年7月21日(金曜日)23:00 – 23:58には、『LOVE LOVE あいしてる 16年ぶりの復活SP』と題して、2001年3月31日のレギュラー放送終了以来となる約16年ぶりに特別番組として復活した。司会のKinKi Kids、吉田拓郎、レギュラーの篠原ともえ、坂崎幸之助も再集結した。ゲストは古舘伊知郎、菅田将暉が出演した。音楽監督は武部聡志が務めた。なお、この特番にパナソニックは提供せず、複数社提供となった。同業他社の三菱電機もスポンサーの一社だった。

2022年7月21日(木曜日)20:00 – 21:54には、『LOVE LOVE あいしてる 最終回・吉田拓郎卒業SP』と題した約5年ぶりとなる特別番組が放送予定。吉田拓郎が2022年度限りで芸能活動を終了・引退するため、この特番が吉田にとって最後のテレビ出演になり、26年間続いたシリーズが完結する予定。

プリプリプリティ
篠原ともえが毎回ゲストの楽屋を訪ねて、視聴者プレゼントとしてグッズや私物をもらおうというコーナー。国際版として「プリプリプリティInternational」があり、エアロスミスやロビン・ウィリアムズ、レオナルド・ディカプリオ、ジェームス・ブラウンなど、来日中の世界のスーパースターが数多く出演した。なぜかキスを迫られる事が多い(特に外国人ゲスト)。正月時期には、このコーナーのみをクローズアップした特番を放送した。番組が終了して14年弱後の2015年1月30日には、『バナナマンの決断は金曜日!』で「プリプリプリティ2015」として復活を果たし、篠原は往年の衣装を着てふなっしーの楽屋を訪ねた。2017年7月21日放送の16年ぶりの復活特別番組には、ゲストの菅田将暉と古舘伊知郎の楽屋を訪ねた。

カムカムギターキッズ
KinKi Kidsの二人に、吉田拓郎や坂崎幸之助がギターの演奏を教えるコーナー。他にも、charやゲストのギタリストが講師として出演。一時期、楽屋裏のトークコーナーのようになり、視聴者から「本当にギターを教えているのか」という指摘がなされた。

ピカピカニューソング
KinKi Kidsの二人に、「全部だきしめて」に替わる番組の新テーマ曲を作らせようというコーナー。作詞を剛、作曲を光一による共作で楽曲制作が進行していたが、剛の作詞は早々に出来上がったのに対して、光一の作曲がなかなか進展しないために箱根合宿を行い、小室等がゲスト出演した。

GO! GO! BAND KIDS
「KinKi Kidsがギター、篠原ともえがベース、吉田拓郎がドラム」というバンドを作ろうというコーナーだったが、吉田が2回目にして脱退。「光一がドラム、篠原がベース、剛がギター」というバンド編成となってしまった。プロデューサーに松任谷正隆を迎え、1998年7月18日の「27時間テレビ夢列島 生LOVE LOVE あいしてる」にて『The Night before your Birthday』を披露した。ちなみに、この時の衣装は、篠原ともえによるデザイン。

モアモアALL STARS
番組終了後に、前室でLOVE LOVE ALL STARSがゲストを囲んでトークするコーナー。視聴者から寄せられたメールなどにゆるゆると回答したりと、リラックスした雰囲気で行われた。不定期で放送。
番組の流れは基本的にオープニング→プリプリ→トーク→ラブラブな歌→ゲスト歌(→モアモア)→プレゼントという流れであった。

但し番組初期はプリプリがオープニングの前にあり、復活特番ではこの流れであった。
上記の各コーナーは、トークの間に入ることもある。
トーク中のコーナーでは、ガシャポンにゲストに対するさまざまな質問が書かれた紙が入っており、数回ガチャポンを回して出てきた質問に答えながらトークするコーナー「ガチャガチャマシーン」(後期では「アルファ」が付加)も行われていた。

オープニング
番組開始当初のオープニング曲は「全部だきしめて」。当初は吉田のオリジナル曲だったが、KinKi Kidsが歌詞等をアレンジしてシングルリリースした。また、『堂本兄弟』の特番等でも度々流される等、番組を代表する1曲となっている。
その後、前述の「ピカピカニューソング」コーナーでの合宿で制作された、剛作詞・光一作曲による「好きになってく 愛してく」に変わったが(これもKinKi Kids名義でシングル化)、番組末期は再び「全部だきしめて」に戻った。

ゲストミュージシャン
番組の始まった当初は拓郎に相談してゲストを決めていたという。
初回のゲストはつんく♂と安室奈美恵。
ゲストミュージシャンはLOVE LOVEな歌に関連したミュージシャン、来日中のアーティストや話題のアーティストなどが出演する。99年7月10日のLOVE LOVEあいしてるで少年隊が歌うNai-nai16(シブがき隊)の演奏をメガデスのデイヴ・ムステインと元メガデス(当時は現メガデス)のマーティー・フリードマンがギターを弾き、その後ろでそうる透が笑顔でドラムを叩くという他の番組では見られないようなライブ演奏が見られるというのがこの番組の特徴である。因みにマーティはLOVE LOVEに出演出来ることを喜んでいたが、デイヴはこの番組に出るのはあまり乗り気でなかった事を後の音楽雑誌のインタビューで語っていた。

イングヴェイ・マルムスティーンが登場した回はイングヴェイ本人がひたすら“イングヴェイ節”を炸裂させ、見るものを圧倒させた。その勢いは当日のゲストだった観月ありさをも食ってしまう程であった。

このほか、当時天使の歌声といわれたシャルロット・チャーチや元ヴァニラ・ファッジ 、ベック・ボガート & アピス のカーマイン・アピスなど来日中のミュージシャンが、国内のミュージシャンでは忌野清志郎(ゲストとしても出演)、元C-C-Bの笠浩二、元LUNA SEAのSUGIZO(ギタリストではなく、ヴァイオリニストとして)、高中正義などが参加している。

レギュラー出演者がゲスト扱いだったこともある。坂崎幸之助とブラザー・トムがゲストとして出演した例や、司会のKinKi Kidsや吉田拓郎がゲスト扱いだった例がある。KinKi Kidsがゲスト扱いの場合は坂崎幸之助とブラザー・トムが代打で司会を務めて、吉田拓郎がゲスト扱いの場合はブラザー・トムが代打で司会を務めた。

「吉田拓郎」について

「吉田拓郎」は、日本のシンガーソングライター、音楽プロデューサー、俳優。本名同じ。旧芸名は平仮名のよしだたくろう。鹿児島県伊佐郡大口町(現在の伊佐市)生まれ、広島県広島市育ち。

血液型A型。身長176.5cm。竹田企画(事務所)、avex trax(レコードレーベル)に所属。フォーライフ・レコードの第2代社長を務めた。楽曲提供者としては入江剣のペンネームを用いることがある。

妻は森下愛子(1986年結婚)。元妻は四角佳子(1972年 – 1975年)→浅田美代子(1977年 – 1984年)。

日本のシンガーソングライターの草分け的存在であり、1970年代初頭、マイナーであったフォークとロックを、日本ポップス界のメジャーに引き上げた歌手である。また、大規模ワンマン野外コンサート、ラジオの活性化、CMソング、コンサートツアー、プロデューサー、レコード会社設立などのパイオニアとして、日本ポピュラーミュージック史において特筆すべき役割を果たした。日外アソシエーツ『ポピュラー音楽人名事典』は、「ニューミュージックを代表する音楽家」と掲載している。2000年2月号の日経エンタテインメント!の特集「J-POPの歴史をつくった100人」で、“J-POPの開祖”と記される。

生い立ち
父親・吉田正廣が朝鮮総督府で農林官吏として勤務したため、吉田家は戦前、朝鮮京城で暮らした。長女は小学校1年の時、病気により朝鮮で早世。長兄一人、次女までは朝鮮で生まれ、敗戦により、1945年夏に朝鮮・京城から家族で引き揚げ、拓郎のみ次男の末っ子として鹿児島県大口町(現在の伊佐市)で生まれた。1952年春、鹿児島郡谷山町(のちの谷山市、現在の鹿児島市)に転居し、谷山小学校に二年生まで在学(歌手の西郷輝彦と同期生)。父は鹿児島県伊佐郡羽月村出身で堂前家から吉田家に養子に入った人物で、引き揚げ後に鹿児島県の郷土史家となった吉田正廣。鹿児島時代は姉と同じ部屋で生活していたので、姉が大好きな歌謡曲をよく聴いていたことに、拓郎も大きな影響を受けた。拓郎自身は両親の出自については詳細はよくわからず、母方の祖母が広島の出身と話している。1955年に両親が別居し、立教大学に進学した兄は上京、母親は姉と拓郎を連れて広島に転居し、小学校3年から広島県広島市南区西霞町で育った。1955年4月、広島市立皆実小学校へ転校。立教大学ジャズ研出身で、後にジャズピアニストになった兄が、夏休み等に女性同伴で帰省したのがきっかけで音楽に興味を持つようになった。小児喘息の持病があり、小学校から中学校にかけては出席日数が半分程度の目立たない子供だったという。このため家にいることが多く、母に本を買い与えられていたが、ウクレレを買ってもらい、小学校高学年か中学校に入って音楽を始めた。皆実小学校~翠町中学校の一学年上に長谷川和彦。1962年、広島皆実高校に入学(後輩に奥田民生ら)。友人の通う広島商業の文化祭に誘われ、そこで同じ高校生のバンドがエレキで演奏しているのを「これだ!」と確信し、「僕もこれをやろう!」と決めた。自身もインストゥルメンタルバンドを結成し、ウクレレを担当した。曲を作り始めたのは高校に入ってからで、好きな女の子が出来るたびに、曲を作って渡した。拓郎は「僕が広島で過ごした高校、大学時代こそがその後50年以上続けて音楽をやって行く事になる言わば『すべての始まり』であり『僕を生み出した季節』」と述べている。

1965年に広島商科大学(現在の広島修道大学)に入学し、カントリー&ウエスタン部と応援団に入部した。中学の同級生と新たにビートルズを真似た4人編成のロックバンド・ザ・ダウンタウンズを結成。ボーカルとギターを担当した。当時はザ・ベンチャーズのコピーバンドが多く、歌えるアマチュアバンドは珍しく、ライブハウス・広島ACBに出演した際には「歌うエレキ・グループ登場!」と書かれた。同バンドは広島で最も人気があったグループ・サウンズ(GS)といわれ、1965年年秋に初コンサートを開催。R&Bが主なレパートリーだったが、ビートルズのコピーほかオリジナル曲も10~15曲程度あった。オリジナルの一つが拓郎作詞・作曲による「たどりついたらいつも雨ふり」の原曲「好きになったよ女の娘」である。この年、メンバーと上京し渡辺プロダクションに売り込むがGSブームも未到来の時代であり、相手にされなかった。天下のナベプロに断られたショックは計り知れず、フォークソング・ブームが始まった時代でもあり、「オレ、ギター一本でフォークソングやるわ」と決意するに至る。

アマチュア期
バンド活動と並行して独学でギターの演奏技術を磨き、ソロでもオリジナル曲を奏で歌った。1966年大学二年のとき、コロムビア洋楽部主催のフォークコンテストにソロで出場。「テイク・ファイヴ」のリズムパターンに三里塚闘争から着想を得た歌詞を乗せた自作曲「土地に柵する馬鹿がいる」をボブ・ディランの写真を見て、ハーモニカホルダーを針金を使って自作し、6弦のエレキギターを12弦ギターに改造して歌唱、中国大会2位、全国3位となる。『平凡パンチ』で「和製ボブ・ディラン」と紹介され広島で知名度が上がるが、広島の音楽仲間からは「あれはフォークでない」「広島を歌っていない」などと批判も出て居心地も悪く、単身上京した。ザ・ダウンタウンズとして1967年に広島見真講堂で開催された『第1回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト』中国地区大会ロック部門で優勝。米軍岩国基地でも定期演奏し、兵隊相手の演奏で初めて音楽の凄さを知った。しかし、ベトナム戦争の侵略基地である岩国慰問が、参加資格のないプロの演奏と抗議が寄せられ、カワイ楽器在籍バンドでもあったことから、ヤマハの関係者から全国大会への出場を辞退してもらえないかと申し入れられ、出場辞退した。翌1968年にも、『第2回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト』に出場し、オリジナル曲「好きになったよ女の娘」を歌い、中国地区優勝、ヴォーカル・グループサウンズ部門で全国4位となる。また、吉田の発案で広島の3つのフォーク団体によるアマチュアフォークサークル『広島フォーク村』を結成。レコードも出さないうちに、地元ラジオにリクエストが殺到し、NHK広島に出演したり、中国放送でDJを担当したりした。この頃激しい学園闘争が繰り広げられた広島大学のバリケードで囲まれたステージで『イメージの詩』を歌い、終了後、白いヘルメット姿の学生に取り囲まれ激しいアジ(agitation)を浴びせられた。

1969年には、カワイ楽器広島店に就職内定したが、上智大学全共闘のメンバーが自主制作(ユーゲントレーベル)で「広島フォーク村」名義のアルバム『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』を制作することになり参加した。

1970年3月頃ユーゲントレーベルから『古い船をいま動かせるのは古い水夫じゃないだろう』を自主制作し、手売りで販売した。またエレックレコードが、『イメージの詩/マークII』を無許可でシングルカットし関東広島地域でリリースしたが、広島のレコード店で売っていることに驚いた拓郎が買って家で聞いたら、リズムが途中で裏になっていたりし、拓郎の抗議で音源を録り直した。そこでエレックレコードの浅沼勇に口説かれ、「ザ・ダウンタウンズ」を解散して上京した。

よしだたくろう期(1970年 – 1974年)
エレック所属期

1970年4月に、インディーズレーベルのはしりであったエレックレコードに契約社員として就職する。エレックはまともな仕事は取ってこられず、愛川欽也が司会をしていた子供番組のオーディションに参加し「イメージの詩」を歌って審査員の子供に落とされたり、NHKのオーディションで藤山一郎に落とされたりした。6月1日、当時のシングルとしては異例の7分弱の長尺シングル「イメージの詩/マークII」で正式にデビュー。吉田拓郎と広島フォーク村は、この一曲によって世に知られるようになったとも言われる。6月27日に『広島フォーク村アルバム発売記念コンサート』を東京厚生年金会館で開催した際、客はほとんどいなかったが、当時イベントの企画などを手がけていた後藤由多加の目にとまり、コンサートなどで起用される。後藤はこれを機に重要なパートナーとなる。12月15日公開の日活映画『女子学園 ヤバい卒業』(夏純子主演・沢田幸弘監督)の劇中、「青春の詩」を歌唱。1971年8月7日〜9日、『第3回全日本フォークジャンボリー』に出演。10月、後藤とともに、アーティスト主体の音楽制作プロダクション『ユイ音楽工房』を設立。11月には広島フォーク村の後輩・大久保一久が組んでいたアマチュアグループのために初の楽曲提供。

CBSソニー(オデッセイレーベル)所属期
1972年1月にCBSソニーに移籍し、アーティスト兼プロデューサーとして契約を結ぶ。移籍と同時に発売した「結婚しようよ」がオリコンチャート3位、40万枚以上を売り上げた。それまで長髪の若者たちの反体制的な音楽としてしか見られていなかったフォークが一躍普通の音楽として認知された。それまでサブカルチャーだったフォークが、メインカルチャーへ浮上する分岐点になり、画期的な“音楽シーン”を作り上げる第一歩を記す。さらに「旅の宿」もヒットしたことで作曲の依頼が舞い込んだ。モップスに「たどりついたらいつも雨降り」や、猫に「雪」「地下鉄に乗って」を提供し、拓郎はフォーク歌手としてだけでなく売れっこの作曲家となり、人気が高まった。2月26日に公開された近代放映製作・東宝配給の映画『百万人の大合唱』(須川栄三監督)の劇中、「今日までそして明日から」を歌唱。6月には長野県軽井沢の「聖パウロ教会」で四角佳子と結婚式を挙げた。「町の教会で結婚しようよ」など、若者の新しいライフスタイルを表現した歌は、ブライダル業界にも大きな影響を与えた。同月、CBSソニーとプロデューサー契約を結び、ワンマンレーベル『Odyssey』を立ち上げ、バックバンドだった猫をデビューさせたり、ロックやフォーク、歌謡曲、演歌歌手に楽曲プロデュースを行うなど音楽プロデューサーとしての地位も上げていく。

1973年1月には、前年バックバンドを務めた柳田ヒロのグループを発展させ新六文銭を結成。5月23日に、4月18日の金沢公演の夜に女子大生に暴行されたと訴えられ、逮捕される。8日間の拘留後、女子大生の虚偽であることが判明して不起訴となり、6月2日に釈放された。釈放の翌日に、神田共立講堂のステージに立つ。しかし、マスコミのバッシングにあい、ツアーのキャンセル、曲の放送禁止、他人への提供曲も放送禁止、CM(スバル・レックス(富士重工)、テクニクス(松下電器))の自粛といった処置がとられた。そんな中でも「明星」編集部は、不起訴後、いち早く拓郎の独占自筆手記を掲載した。この金沢事件で女性ファンは一気に減ったが、デビュー直後に執拗な“帰れコール”を浴びせた男性ファンが戻ってきた。

拓郎は、梓みちよに「メランコリー」、1974年1月15日に、森進一に「襟裳岬」を提供する。この「襟裳岬」は同年の第16回日本レコード大賞を受賞する快挙となったが、当時国民的な大イベントであったレコード大賞の授賞式に拓郎は上下ともジーンズの普段着で登場し、平然と賞を受け取ったため物議を醸した。

吉田拓郎以降
フォーライフ・レコード設立

1975年には、かまやつひろしに「我が良き友よ」を提供、この曲もヒットとなった。1975年5月に、高額納税者番付1974年度納税分で、歌手部門にフォークシンガーとして井上陽水とともに初のランク入りとなる(拓郎5位、陽水7位)。

6月1日にCBSソニーの拓郎が、ポリドールの井上陽水、エレックの泉谷しげる、ベルウッドの小室等と共に、アーティストの手になる初めてのレコード会社『フォーライフ・レコード』を発起した。これを機に「吉田拓郎」と改名する。12月に、オールナイトニッポン最終回で四角佳子との離婚を発表する。この年森山良子に提供した「歌ってよ夕陽の歌を」は森山の新境地を切り開き”フォークの女王”に戻らせる。

8月2日~3日、静岡県掛川市・つま恋で、野外オールナイトコンサート「吉田拓郎・かぐや姫 コンサート インつま恋」開催。

1976年3月28日、TBS「サンデースペシャル」「セブンスター・ショー」のトリを務める(後述)。

4月にフォーライフ第1回新人オーディションでグランプリを獲得した川村ゆうこをプロデュースし、デビュー曲「風になりたい」を作詞作曲。本楽曲は拓郎自身「自分で作った曲で一番」と述べている。11月に、小室・拓郎・陽水・泉谷ら4人のスプリット・アルバム『クリスマス』を初回プレス30万枚で発売し、オリコンで1週のみ1位となったものの、累計が10万枚にも満たず、フォーライフの屋台骨を揺さぶることとなった。翌年、フォーライフは2年目の決算で8億円の赤字を出す。6月には、小室に代わり、フォーライフ2代目社長に就任する。7月に浅田美代子と2度目の結婚。9月10日に、井上陽水が大麻所持(大麻取締法違反容疑)で逮捕。社長として記者会見で平謝りし、嘆願書を集めて東京地検に日参するなど陽水の救済に尽力した。

70年代後半には、キャンディーズに「やさしい悪魔」、石野真子に「狼なんか怖くない」を提供。「やさしい悪魔」は、後年、町田ガールズ・クワイアがカバーした。1979年2月、『たくろうオン・ステージ第二集』(1972年12月発売)収録の「ポーの歌」が浜口庫之助の曲の盗作と報じられる。拓郎自身は初めからオリジナル曲とは言っていなかったが『たくろうオンステージ第二集』を無許可でリリースしたエレックが吉田拓郎作詞・作曲とクレジットしてしまったというのが真相である。

1979年『吉田拓郎 アイランド・コンサート in 篠島』が開催され、オールナイトで69曲、約8時間歌い、観客2万人動員した。また、特別出演としてデビュー直後の長渕剛がステージに登壇した。

『TOUR 1980』では過去の曲を一切やらず、全て新曲で通すなど、過去との決別を宣言し、初の海外録音作品『Shangri-La』を発表した。

1981年4月5日、資生堂81夏のコマーシャルソング「サマーピープル」リリース。

フォーライフ・レコード社長を退任
1982年6月に、ツアー最中の株主総会で、アーティスト業に専念するため、フォーライフ・レコード社長を退任すると発表された。

1983年6月、女優・森下愛子との不倫騒動が流れ、同年10月に浅田美代子が芸能界へ復帰した際は、共に自身2度目の離婚を否定していた。しかし翌1984年8月、浅田との協議離婚を発表した。

1985年6月15日には、国立競技場で国際青年年 (IYY) 記念イベント「ALL TOGETHER NOW」を小田和正と共に企画運営し、司会を務めて、5万人の観客を動員した。同年、オールナイトライブ『吉田拓郎ONE LAST NIGHT IN つま恋』が開催された。

1986年に、映画『幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬』に高杉晋作役で出演。

1986年、日本民間放送連盟は民放ラジオ放送30周年を記念して、この30年間を代表するスーパースターベスト10を選び、総合ベスト10で、拓郎は、①ビートルズ ②長嶋茂雄 ③美空ひばり ④チャップリン ⑤王貞治 ⑥エルビス・プレスリーに続く第7位に選ばれた(⑧山口百恵 ⑨ジョン・F・ケネディ ⑩石原裕次郎)。

1986年12月に森下愛子と3度目の結婚。

テレビ出演の増加
1988年1月1日に、プライベート・オフィス「宇田川オフィス」を設立する。

この頃からテレビ出演が多くなり、1989年にNHK総合テレビで放送された『愉快にオンステージ』にホストとして出演。さらに、1993年には、TBS系で放送されていたドキュメンタリー番組『地球ZIG ZAG』の3代目司会者に高橋リナとともに起用された。また、本人自ら出演した『サッポロ☆ドライ』に出演し話題となり、CMソングとなった「すなおになれば」もヒットした。

1988年6月16日、日清パワーステーションにて、ライブハウスでのコンサートを行う。

1989年2月8日、アルバム『ひまわり』を引っ下げて行われた全国ツアーがスタート。同年3月15日に、東京ドームでコンサートを行い、5万人を動員する。

新潟県吉田町の有志団体“若者共和国”からの依頼で、1992年4月に「吉田町の唄」を発売。2004年には吉田ふれあい広場に歌碑が建立される。

1994年8月16日に参加した『日本をすくえ’94 〜奥尻島、島原・深江地区救済コンサート〜』(日本武道館)はテレビ放送され、同年の大晦日には、『第45回NHK紅白歌合戦』に初出場を果たす。

1996年に、まだCDデビュー前だったKinKi Kidsと共に『LOVE LOVE あいしてる』の司会を務め大きな話題を呼び、翌年の1997年には『LOVE LOVE あいしてる』のバックバンドを務めたLOVE LOVE ALL STARS共に制作したセルフカバーアルバム『みんな大好き』が20万枚以上の売り上げを記録した。

フォーライフ・レコードの契約を解消から現在まで
1999年9月30日にフォーライフ・レコードとの専属アーティスト契約を解消し、2000年4月にインペリアルレコードに移籍する。移籍したのは、交友のある飯田久彦がテイチクエンタテインメント代表取締役社長に就任したからである。

2003年4月に、肺がん手術のためコンサートツアーは延期となるが、手術は無事成功し、秋には復帰コンサートで全国に元気な姿を見せた。ビッグバンドでのコンサートツアーはこの年から2006年まで毎年行われた。

2008年8月3日に母校の広島修道大学(旧広島商科大学)で在学中に作詞作曲した「今日までそして明日から」の歌詞と、1970年代の写真入りの歌碑が披露された。

2009年2月にavex traxに移籍する。6月21日には、生涯最後の全国ツアー『Have A Nice Day LIVE 2009』(10ヶ所10公演予定)がスタートするが、7月8日開催の大阪公演開始45分前に、体調不良による公演中止が決定した。診察の結果、慢性気管支炎の悪化で約2週間の自宅療養を行うことになり、福岡、広島、神戸の3公演は中止となった。

7月23日にも、つま恋へ移動する車中で体調の異変を訴え、その日の内に残り2公演も中止となる。

2013年1月30日発売の、前年のライブを収録した『吉田拓郎 LIVE 2012』(Blu-ray・DVD・CD付DVD)が、オリコン週間DVDランキング総合6位となり、TOP10入り史上最年長(66歳10ヶ月)を記録する。

2017年3月8日に『ニッポン放送「春の新番組」パーソナリティ発表記者会見』にて、新番組『吉田拓郎 ラジオでナイト』をスタートすることが発表された。

2022年、本年を以て全ての音楽活動から引退する意思を明らかにしている。これにより同年6月29日発売のアルバム『ah-面白かった』が最後のCDリリースとなり、自身がパーソナリティを務めるニッポン放送『吉田拓郎のオールナイトニッポンGOLD』も年内で終了する方向だという。また、7月21日放送の『LOVE LOVE あいしてる 最終回・吉田拓郎卒業SP』(フジテレビ)が放送され、これを以て拓郎自身最後のテレビ出演となる。

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