テレビ朝日で放送されているバラエティ番組「タモリ倶楽部」の無料動画や見逃し配信などの無料視聴方法について紹介したいと思います。
この「タモリ倶楽部」の動画配信なのですが、今のところどこの動画配信サービスでも配信されておりません・・・。
しかし、テレビ朝日が放送しているということもあり、今後「タモリ倶楽部」の見逃し配信や動画配信が行われるとしたら、それは動画配信サービスTELASAになると思われます。
目次
「タモリ倶楽部」以外にTELASAテラサで見れる動画
それではここからは、TELASAテラサ見れる動画の一部をご紹介したいと思います。
TELASAテラサで見れるドラマは下記になります。
・先生を消す方程式
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・そのご縁、お届けします
・チア☆ダン
・俺たちはあぶなくない
・蛇のひと
・G線上のあなたと私
・時効警察シリーズ
・映像研には手を出すな
・ドクターX
・ドクターY
・おっさんずラブ
・刑事七人
・集団左遷
・西部警察
・妖怪シェアハウス
・未解決の女
・おじさんはカワイイものがお好き
・警視庁・捜査一課長
・おしゃ家ソムリエおしゃ子
・ギルティ~この恋は罪ですか~
・BG
・家政夫のミタゾノ
・特捜9
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「タモリ倶楽部」奇跡のセカンドライフ!居抜き物件グランプリ2022
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「タモリ倶楽部」の出演者
【MC】タモリ
【ゲスト】飯尾和樹(ずん)、森山直太朗
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「タモリ倶楽部」造花の桜でインドア花見
『職人技が百花繚乱!造花の桜でインドア花見』初登場のブラマヨ小杉と一緒に、多種多様な造花職人たちの手腕を探りつつ、今注目を浴びる“インドア花見”を味わいます
ここ数年、春を味わう手段の1つとして、注目を浴びているのが桜の造花!実は手がける職人によって造花も多種多様なんです。そこで今宵は、タモリ倶楽部初登場のブラマヨ小杉と一緒に、様々なジャンルで桜の造花を手がける造花職人たちの手腕を探りつつ、これから主流になるかもしれない“インドア花見”を存分に味わってみたいと思います!
「タモリ倶楽部」の出演者
【MC】タモリ
【ゲスト】小杉竜一(ブラックマヨネーズ)、阿佐ヶ谷姉妹
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「タモリ倶楽部」空耳アワー2022!過去の名作もプレイバック!
『春の新作大盤振る舞い!空耳アワー’22スプリング』前回からおよそ半年!溜まりに溜まった新作空耳を大放出!空耳の聖地の今にも迫り、過去の名作もプレイバック!
空耳アワー春の新作祭り開催!前回のサマーコレクションから、およそ半年!溜まりに溜まった新作空耳を大放出!さらに、VTR撮影でお世話になった空耳の聖地の今に迫り、そこで生まれた過去の名作もプレイバック!英語堪能なアーティスト青山テルマに、ロック大好き・ビビる大木を迎え、空耳と春の訪れをじっくりとご堪能いただきます。
「タモリ倶楽部」の出演者
【MC】タモリ
【ゲスト】安齋肇、ビビる大木、青山テルマ
※「タモリ倶楽部」は現在TELASAテラサでは配信されておりません。
「タモリ倶楽部」について
「タモリ倶楽部」は、テレビ朝日系列で1982年(昭和57年)10月9日から放送されている日本の深夜バラエティ番組。タモリが司会を務める冠番組、長寿番組である。モノステレオ放送、ハイビジョン制作(2010年7月10日放送分より)、字幕放送(2015年1月17日放送分より)が実施されている。
番組サブタイトルは、英称:「FOR THE SOPHISTICATED PEOPLE」が使用されている。
この項目では、前身番組でタモリ司会のバラエティ番組『夕刊タモリ!こちらデス』についても触れる。
1981年(昭和56年)10月4日から1982年9月26日までの1年間、同局で放送されていた報道番組『日曜夕刊!こちらデスク』のパロディ番組として、前半は毎週日曜日の18:30 – 19:00、後半は17:40 – 17:55(JST)に放送されていた、『夕刊タモリ!こちらデス』を原点とした“元祖脱力系番組”をコンセプトにしている。なお「夕刊タモリ」は時事ネタを元にしたコント番組で、オープニングでは「夕刊」の字が分裂して「タモリ」になっていたほか、サブタイトルとして「~YOU CAN TAMORI~」も表示されていた。
当番組は1982年10月9日から当時、毎週土曜日の0:10 – 0:40(JST、毎週金曜日深夜)の深夜バラエティ番組としてタモリが所属する芸能プロダクション田辺エージェンシーと共同制作で放送開始。1980年代は制作会社フルハウス、1990年代以降は制作会社ハウフルスと共同制作を実施。同じくタモリが司会を務めたフジテレビ系列の帯バラエティ番組『笑っていいとも!』の放送開始から4日後のことであった。
この同時期放送開始には、タモリが所属する芸能プロダクション田辺エージェンシー代表取締役社長、田邊昭知(田辺昭知)の並々ならぬ後押しがあったという(田辺はタモリ本来のシュールな芸風を気に入っており、『笑っていいとも!』の司会をすることでその才能が鈍化するのを嫌って、シュールさを前面に出した同番組を企画したといわれている)。その後、どちらもタモリの代表的な番組となり(前者は2014年3月末で終了)、長寿番組となった。
番組の公式ウェブサイトはテレビ朝日のサイト内にある簡単な解説のみで、独立した番組サイトは設置していない。ケータイサイトでは当初コンテンツ紹介が無く、タイトルロゴが表示される待ち受け動画や番組テーマソングのダウンロードができるのみであった。2016年以降はスマートフォン向け番組サイトに次回予告や出演者紹介のコンテンツが設けられるようになった。
同局で放送されていたバラエティ番組『くりぃむナントカ』がテレビ朝日社員に行ったアンケートで、好きなテレビ番組に当番組が第1位に選ばれた。
放送回によっては、7 – 9%と深夜番組としては高い視聴率を記録することもあり、同時間帯では1位になることが多い。
2009年10月、テレビ朝日の秋の番組改編にともない、月曜日から金曜日の24時以降の深夜バラエティ番組の大半を放送終了させたが、『さまぁ〜ず×さまぁ〜ず』と当番組は残ることとなった。
2010年7月9日放送分よりハイビジョン放送を実施。
2015年1月16日放送分より字幕放送を実施。
オープニング映像
オープニング映像は、最初に番組タイトル名が画面上から現れると、ロイヤル・ティーンズ(英語版)(The Royal Teens)の楽曲「ショート・ショーツ(英語版)(Short Shorts)」(一時期除く)に合わせ、女性(初期には男性も)が様々な下着(TバックやOバックも含む)を着用して、背後でお尻を振る映像(一時期にはCG制作もあった)が流れる。「ショート・ショーツ」は、ボーカル無しで、主旋律をピアノまたは電子楽器で演奏するアレンジされたものを使用した時期もあった。
お尻を振る女性は当番組の出演者やスタッフ間の中では「お尻ギャル」と呼ばれ、番組内で不定期に募集がかけられ、番組企画の一環として選考会が行われることがある。その際、顔や氏名はプライバシー及び個人情報等の関係で一切公開されず尻のみで選定が行われ、タモリらゲストらが「これは和尻だね!」などと論評する。
ハイビジョン化する前は、本物の人間の映像に加え、一部CGの映像が混入する形式がとられていた。また、ワンシーンだが尻をショーツではなく手や番組のロゴで隠している映像がある。ハイビジョン化後は安斎肇(ソラミミスト)のイラスト付きの映像が作られた。
過去には、テーマ曲が短縮された上で生身の女性が一切出ないCGによるお尻のみでのオープニングが放送されたことがある(2001年)。また、オープニング映像がプールに飛び込む水着女性を後ろから撮影したものに変わったり、テーマ音楽(ミュージカル『キャバレー』中の”Willkommen, Bienvenue, Welcome!”)なども刷新されたことがあったが、これらは程なくして全て元に戻った。キリン・シーグラムが単独スポンサー(一社提供)だった頃、同社のウィスキー「NEWS」のロゴが入ったTシャツを、ノーブラで着て踊る女性に水をかけ乳首を透けさせるというオープニングも存在したが、これも程なく元に戻った。
1994年2月5日放送分では「マスマス元気に」というテーマでお尻オーディションを開催する(審査員はタモリの他に糸井重里、山田五郎が務めた)。応募総数172名のうち、書類選考で30名が第一次審査でテレビ朝日に集まる。ここで出演部門ごとにランジェリー、Tバック、そしてノーパンの三部門の希望者を確認して(特に部門別に審査は行われていない)第二次審査(審査員のモニター審査)に合計15名が進む。第二次審査で更に6人を選び、第三次審査(審査員による最終現物審査)を行う。そして最終結果を3人の審査員が一人ずつ選んで3人の「お尻」女性が決定された。結果的にランジェリー、Tバック、ノーパンの部門で一人ずつ選ばれた(なお、女性はお尻を見せるため全員後ろ向きであったため、顔はほぼ見せていない)。
このうち、Tバック部門ではTフロントコスチュームで話題だったアイドルグループピンクサターンの松原理恵が、ノーパン部門ではAV女優の沢田杏奈が選ばれた。また、第二次審査以降はお尻を見せることもあり、下はパンティ、上はブラジャーか衣装をまとっているのに対して、沢田杏奈だけはノーパン部門ということもあって、パンティは履いていなかった。しかし、第三次審査では上もブラジャー等付けず(ハイヒールを履いているのみ)、生のオッパイからアンダーヘアも露出した、いわゆる全裸で最後まで審査を受けていた。
2016年8月27日放送分では「次回から鮮度バツグン映像でスタート!平成生まれONLY!お尻オーディション」が開催され、オープニング映像が6年ぶりにリニューアルされた。平成生まれ限定の「お尻オーディション」が開催され、お尻好きを自認する斉藤和義と星野源が審査員を務めた。新オープニング映像の公開は、2016年9月2日放送分から実施している。並びにミニコーナー「空耳アワー」のオープニング映像も6年ぶりにリニューアルされた。2017年6月頃からは夜景のCGをバックにしたもの(『今夜は最高!』のパロディ)に再リニューアルされた。
2020年からはナレーションによるその日の企画名のコールが追加されている。
オープニング
タモリが専用のハンドマイクを持ち、お決まりの言葉である「毎度おなじみ流浪の番組、タモリ倶楽部でございます」と毎回のあいさつをして(前・後編の放送回の後編の冒頭で、ナレーターがこのフレーズを言う場合もある)撮影・番組開始、左上に収録・撮影・ロケ地が表示される。
その日の企画の内容に合わせて、司会のタモリが世間話を話していると、わざとらしく、当日のゲストが3名から5名出る、というコント風のやりとりがなされる。中には上記の台詞を話す前からゲストが既に登場している企画や、世間話を話した後にゲストがタモリに話しかけながら登場する企画もある。ゲストとのトークで本日の企画の内容が明らかにされ、企画の場所へ移動する。
企画の本筋
司会のタモリとその日のゲスト3名から5名と軽いオープニングトークの後、ナレーションによってその日の企画内容(後述)が進められ、先述のオープニング映像が流れる。企画が始まるとたいていは、代表をしてテレビ朝日アナウンサーやゲスト1名が進行役となり、台本・手札・フリップなど使用して、本編(企画)を進めていく。
司会のタモリは聞き役に回る。番組開始当初は企画の本筋へ入っても司会のタモリ1人で司会進行を務め、ゲストが居た際にも行っていた。近年では、タモリは自ら進行役はイヤだと言う。『タモリ倶楽部』の番組タイトルに対して、タモリは「名義貸しで番組をやっている」と語る。また、ハンドマイクはその後の企画の本編では使わない。
「空耳アワー」のコーナーが明けると、タモリ(または進行役)が「今日は○○(企画内容)について(学んで、勉強して)まいりました」とまとめて締めくくる。
本編(企画)では毎回、様々かつマニアックなムーブメントを取り上げている。
撮影・ロケーション
「低予算番組で番組スタジオセットが組めない」という触れ込みのため、ほぼ毎回ロケーションスタイルで制作されている。ロケの場合、全く関係のない人が少ない場所で行われるため、後ろを普通に通行人や自動車、自転車、バイクが通っていたり、遠くからロケを眺めている人が映っている。局内での収録の場合(空耳アワード等)も大抵はテレビ朝日社屋・ロビー、あるいは制作会社であるハウフルスの会議室・仕事場・収録場所の廊下などを使用し、最低限の番組スタジオセットを組んで収録している。
タモリのスケジュールと予算面から、ロケ先は東京近郊が基本となっている。ただし『笑っていいとも!』終了後は大型の遠征ロケを行うケースがあり、2016年1月9日・16日放送分では「タモリ電車クラブ ついに西日本進出!!大阪環状線一周ツアー(前・後編)」として大阪ロケが行われた。当番組が関東地区以外でロケを行ったのは2000年12月22日に放送された「新幹線各駅停車うどんつゆの旅」における東海道新幹線沿線ロケ以来、15年ぶりとなった。
また、2016年4月30日・5月7日・14日放送分で大型遠征ロケ第2弾として「タモリ電車クラブ 今度は京都へ!いよいよ開業!京都鉄道博物館(前・後編)」と「せっかく京都に来たから 京阪電車と比叡山横断のりものツアー(前・後編)」の京都ロケが3週にわたって行われた。鉄道企画で3週にわたって放送されるのは当放送回が初めてである。
2020年の新型コロナウイルス流行後は屋外ロケを避け、テレビ朝日社内のリハーサル室などを使って収録している。
ハイビジョン化
2010年7月3日放送分まで、画面アスペクト比4:3の標準画質(SD)で放送していた。番組内でも過去2回にわたり、『タモリ倶楽部』のHD化について企画を取り上げたことがあるが、「番組制作上の予算の都合」や「SDテープに在庫があるのでこれを使い切らないといけない」ことを理由にSDでの制作を続けた。この際検証の度にHDTVカメラで撮影された映像は地上デジタル放送では4:3画角レターボックス放送(額縁放送)で放映された。
2011年7月24日に地上アナログ放送が停波するのに伴い、2010年7月5日から地上デジタル放送への完全移行を前提に、地上アナログ放送の全番組が画角16:9のレターボックス放送に移行するため、本番組も7月9日放送分「RCカーマニア高山善廣、聖地タミヤで電流バトルIN新橋」からハイビジョン化(同時にオープニングを新装)。その前週の2日放送分ではオープニングのHD化対策企画とお尻オーディションを行った。
テレビ朝日系列のバラエティー番組として最後に残ったハイビジョン(HD)未対応番組であった。
適当さ・ゆるさ
司会のタモリのシュールな芸風を尊重しているため、タモリらゲスト出演者のやる気のなさや収録の適当さを前面に出しているのも特徴のひとつである。あまりのやる気のなさ(主にオープニング場面)に時折、「やる気を出せ〜」とツッコむ進行役のお笑い芸人もいるが、タモリの「俺は名前を貸しているだけだ」「名義貸しだよ」という姿勢になったり、本人が好きな鉄道関連になると「番組のタイトルはなんて名前?」「俺の番組だ」などと権力を行使しし誰もツッコめず、結局何もなかったように番組が進行していく。
料理企画では、タモリが番組の流れを無視して一品料理をこさえたり、用意してあるアルコール類を飲酒してひとり上機嫌になる場面もみられる。
番組タイトル・テロップ
番組開始当初のタイトルロゴはタモリ自身が書いたもので、サブタイトルは「CONVENIENCE CABARET(「便利なキャバレー」の意)」だった。その後、2代目としてサブタイトルが「FOR THE SPONTANEOUS(「自発的な」の意) PEOPLE」になった時期もある。1991年10月に番組10年目突入を記念して現在のタイトルロゴに変更、3代目となるサブタイトルは「FOR THE SOPHISTICATED PEOPLE(「洗練された人々のために」の意味)」である。デザインはMASA – TOYOが担当(ハウフルス社長:菅原正豊)。なお、2代目ロゴに変更された当初は「帰ってきたタモリ倶楽部 FOR THE SOPHISTICATED PEOPLE」と表記されていた。
オープニング映像が一新された回(女性がプールに飛び込むバージョンなど)はタイトルロゴも上記とは全く別のものになっていたり、オープニング映像の最初に挿入されるサブタイトルが非表示の時期もあった。
「空耳アワー」のミニコーナーで最高の評価商品には、ジャンパーの背後に「TAMORI KU楽BU」と描かれている。
新聞などの番組表では、1行あたりの文字数(10文字程度。Gコード併記の場合5文字程度)の都合により「タモリ」とだけ掲載されることが多い。
テロップ演出については、発言内容をなぞるテロップは表示されない。ただしトーク内容を説明したり、ツッコミを入れるテロップが表示されることはある。
放送開始からゲスト出演者の氏名、ロケ地のテロップ表記に関してはシンプルな白い文字を使用していたが、2015年3月27日放送分から、いずれも少し手を加えられた表記となった。それ以外のテロップに関しては、時代に合わせて徐々に派手なものが使われるようになっている。ただし発言内容をそのままテロップ化することは行われていない。
2019年3月22日放送分からは、左上に番組内容を説明する固定テロップが表示されるようになった。
BGMのダジャレ
当番組では企画(コーナー)の趣旨説明や解説の映像のバックに、一見デタラメで適当な選曲に思える音楽や効果音が流れることがあるが、たいていの場合、その音には曲名や歌詞、歌手名などを使ったダジャレが含まれている。ギャグとしてカラスの鳴き声やくしゃみなどの効果音が入ったりする。BGMはフェードアウトせず、途中で切れるような終わり方も特徴。
これは同じハウフルス制作で佳夢音がサウンドコーディネートを担当する番組に共通して見られる傾向で『出没!アド街ック天国』(テレビ東京系列)、『秘密のケンミンSHOW』(読売テレビ制作・日本テレビ系列)、過去では、『世紀のワイドショー!ザ・今夜はヒストリー』・『チューボーですよ!』(TBS系列)、『クイズ世界はSHOWbyショーバイ!!』・『マジカル頭脳パワー!!』(日本テレビ系列)などでも同様の選曲がなされている。
※「タモリ倶楽部」は現在TELASAテラサでは配信されておりません。
「タモリ」について
「タモリ」こと、森田 一義は、日本のお笑いタレント、司会者。福岡県福岡市南区市崎出身。田辺エージェンシー所属。ビートたけし、明石家さんまと共に、日本のお笑いビッグ3の一角を担う。
1982年から2014年まで『森田一義アワー 笑っていいとも!』で司会を務め、「同一司会者により最も多く放送された生バラエティー番組」として、また1984年から現在まで『ミュージックステーション』で司会を務めており、「同一司会者による生放送音楽番組の最長放送」としてそれぞれギネス世界記録に認定されている。
生い立ち
太平洋戦争終戦から一週間後の1945年8月22日に福岡県福岡市に生まれる。後にタモリ本人が2018年5月25日放送の「ブラタモリ」の番組内で語ったところによると、本名の「一義」は、祖父が尊敬していたという政治家・田中義一から名前をもらおうとしたところ、上下の画数の差が大きく「頭でっかちな子供になる」という理由で上下ひっくり返して「一義」にしたものだと言われる。
本人曰く、幼少時代より大人びていて、「偽善」という言葉を知っていたと語っている。幼稚園入園時期が迫り、とある園に見学に行った際に「ギンギンギラギラ夕日が沈む(童謡『夕日』葛原しげる作詞・室崎琴月作曲)」を両手を回転させてお遊戯している園児らを見て、自分には出来ないと入園を拒否したというエピソードがある。
小学校入学に至るまで、毎日、一日中坂道に立って人間観察を行っていたことから坂道好きとなり、後に「日本坂道学会」を設立している。
少年時代
小学3年生のとき、下校途中に電柱のワイヤに顔をぶつけ、針金の結び目が右目に突き刺さって失明。2ヶ月休学して治療したものの、視力は戻らなかった。
小学5年生の頃、予餞会で「喜劇カラス天狗」の台本を書いて披露したが、受けなかった。しかし、後に脚本家として活躍している同級生と再会した際、「面白かった」と評された。スポーツにも興味があり、野球をやっていた。ラグビーなどのスポーツ観戦も興味があるという。
小学生の頃、当時としては珍しい考えの祖母が「今の内から男も料理ができるようにならないと、後々奥さんがいざと言うときに困るでしょ。私が料理をしている姿を見ていなさい」と言われ、毎日祖母が支度する姿を見ていたことが料理を始めたきっかけだという。この頃のことを「小学生時代は、学校から帰ると暇でテレビゲームもなければ、習いごともなく、人を見ているか、坂道を見たり、船を見たり、(祖母の料理支度の見学は)暇つぶしにはもってこいだった」と述懐している。そのため、金銭面にも余裕がなかった学生時代に友人らと料理を作る際には、一人で大体の料理を作ったり、出汁の取り方まで全部覚えていたと語っている。
福岡市立高宮中学校時代には、近所にあった平尾バプテスト教会に通ったという。キリスト教に興味があったわけではなく、宣教師の身振り手振りや喋りが面白いからという理由であり、この経験が後の「インチキ牧師」等に生かされている。なお、このものまねにはモデルが存在し(当教会の宣教師、R.H.カルペッパー)、当教会関係者から見ても「確かによく似ている」そうである。
部活動は、主に剣道と陸上競技を行っており、陸上部で短距離200mを走っていた。
学生時代
福岡県立筑紫丘高等学校へ入学し、剣道部と吹奏楽部を両立してトランペットを担当していた。アマチュア無線クラブにも入っていて、船の無線通信士にもあこがれた。さらに居合道場も通い、二段を取得した。ファンであった地元球団・西鉄ライオンズが身売りをしたため、野球への興味を失う。
高校を卒業後、1年間の浪人生活を送る。大学浪人中はしばしば押入れに篭り、中国や韓国からのラジオ放送を長時間聴いていたことが、「4か国語マージャン」などの「インチキ外国語芸」へとつながった。また、座禅を組んで極度の瞑想に近い経験をしたこともある。
無線に興味があったため電気通信大学を目指したが、物理が克服できず、1年間の浪人生活を経て、1965年に早稲田大学第二文学部西洋哲学専修へ入学。
早稲田大学ではモダン・ジャズ研究会に在籍し、高校時代から引き続きトランペットを担当。同期に増尾好秋、1年先輩には鈴木良雄らがいた。しかし、「マイルス・デイヴィスのラッパは泣いているが、お前のラッパは笑っている」などの批評を受け、トランペットは3日でやめてしまい、代わりにマネージャーと司会を担当することになった。この時期に付けられたニックネームが、森田をバンドマン読みとした「タモリ」である。
その後、学生バンドの司会としてTBSラジオの番組「大学対抗バンド合戦」に出演し、司会の大橋巨泉からその才能を認められている。
大学2年次5月の連休に、友人2人と旅行を計画し、学費用の仕送りを旅行用に一旦充てたが返済されず、自分の授業料の支払いが滞ることとなり、3年次に学費未納のため抹籍処分となった。
帰郷・山下洋輔との出会い
大学を抹籍処分になった後もモダン・ジャズ研究会のマネージャー役を続行し、バンドの司会などでかなりの収入を得ていた。しかし、間もなく叔父に福岡に引き戻され、朝日生命に3年近く保険外交員として勤務し、2歳年上の同僚の女性と結婚した。その後旅行会社に転職し、系列の大分県日田市のボウリング場支配人に転属となった。
1972年、渡辺貞夫の福岡でのコンサートスタッフに大学時代のジャズ仲間がいたことから、コンサート終了後、友人が泊まっていたホテルで終電がなくなる時間間近まで飲みながら話し込んでいた。いざ帰ろうと部屋から出た際、やけに騒がしい一室があり、半開きになっていたドアから中を覗くと、室内ではコンサートに同行していた山下洋輔トリオ(山下洋輔、中村誠一、森山威男)が歌舞伎の踊り、狂言、虚無僧ごっこなどで乱痴気騒ぎをしていた。そこに通りがかりのタモリが乱入し、中村誠一が被っていたゴミ箱を取り上げると、それを鼓にして歌舞伎の舞を踊り始めた。山下トリオの面々は「誰だこいつ?」と動揺するが、中村が機転を利かせてその非礼をデタラメ朝鮮語でなじると、タモリがそれより上手なデタラメ朝鮮語で切り返し、中村とのインチキ外国語の応酬に発展。表情を付けてデタラメなアフリカ語を話し始めた際には、山下は呼吸困難になるほど笑ったという。始発が出る時間まで共に騒ぎ、「モリタです」とだけ名乗って帰宅した。
「この男はジャズファンに違いない」と確信した山下は、福岡市内のジャズバーに「モリタという名前の男を知らないか」と片っ端から問い合わせた結果、「喫茶店の変人マスターでは?」という情報が入り、再会を果たすことになる。この時期タモリは転職して喫茶店のマスターとなっており、ウィンナ・コーヒーを注文すると、ウィンナーソーセージが入ったコーヒーを出すなど、地元では奇妙なマスターとして有名であった。再会後は、山下トリオが九州に赴く際の遊び仲間となり、山下のエッセイ等でしばしば取り上げられるようになった。
1975年の春、山下が行きつけの新宿ゴールデン街のバー「ジャックの豆の木」で、「山下がそんなに面白いと言うのなら一度見てみたい」と、タモリを上京させる機運が高まり、バーの常連(奥成達、高信太郎、長谷邦夫、山下洋輔、森山威男、坂田明、三上寛、長谷川法世、南伸坊ら)により「伝説の九州の男・森田を呼ぶ会」が結成され、会のカンパによって、1975年6月に上京を果たす。
上京時に開かれた独演会では、「4か国語麻雀」や「中国で作られたターザン映画に出演した大河内伝次郎演じる宇宙飛行士が、宇宙船の中で空気洩れに苦しんでいる様子」など、リクエストを含めた即興芸を披露した。
赤塚不二夫との出会い
福岡で生活しつつ、カンパの資金により月1回上京し「素人芸人」として即興芸を披露するという一種の二重生活を開始した。
8月初旬、ジャックの豆の木での独演会に、面白いことをやっている人間がいるという噂を聞きつけた赤塚不二夫が訪れ、その芸に心酔した赤塚は、8月末に生放送が決定していた自らの特別番組へ出演させることを決意する。
放送までまだ日数があったため福岡に帰ることを望んだが、「芸をもっと見たい。福岡に帰したくない」と考えた赤塚の、常人ではありえない発想の懇願方法(当時、赤塚が住んでいた4LDKのマンションや、保有するベンツのスポーツタイプなど、それら全てを自由に使っていい)を了承、赤塚宅での居候生活が始まった。さらに、赤塚から月に20〜30万円の小遣いが渡され、新宿の飲み屋で赤塚や山下らと馬鹿騒ぎしながらネタを作る日々を送ることとなる。
居候の秘訣は「卑屈になるな」であると、ことあるごとに語っているものの、家主(赤塚)は仕事場に寝泊まりしており、「居候」「居候生活」と言っているが、実質は貸与である。
マンションを譲ることになった赤塚は、仕事場のロッカーを倒し、それに布団を敷いて寝場所を確保するなど、侘しい生活を送ることとなる。着る服がなくなりやむなく一時帰宅した際に、探していた服をタモリが着ていたという笑い話がある。
オフィス・ゴスミダ時代
タモリが赤塚宅で居候し、東京に居住することになったのと同時に、「ジャックの豆の木」のA子ママ(A子は匿名ではなく通称)を社長、山下洋輔を常務とするマネジメント事務所「オフィス・ゴスミダ」(「ゴスミダ」はタモリによる韓国語モノマネの1フレーズ)が設立され、所属タレントとなる。同事務所のマネジメントにより、前述の赤塚が出演させたかったバラエティ番組『マンガ大行進 赤塚不二夫ショー』(1975年8月30日、NETテレビ『土曜ショー』にて放送)で、テレビ番組初出演を果たす。放送ではインチキ牧師などのパフォーマンスを次々と披露したが、たまたま番組を見ていた黒柳徹子から「今の人、誰?すごいじゃない」とその夜のうちに問い合わせがあり、次いで『13時ショー』(『徹子の部屋』の前身番組、NETテレビ)の素人芸能コーナー「珍芸スターお笑い大行進」(コーナーMCはラビット関根)に、赤塚とともに2回目のテレビ番組出演をした。京都大学の学園祭に、筒井康隆・高信太郎・山下洋輔とともに出演し、野坂昭如・日高敏隆などの文化人との出会いを果たすが、学園祭主催者と発生した金銭的なトラブルを機に「オフィス・ゴスミダ」は解散した。
赤塚のテレビ特別番組に出演させるという当初の目的を達成した赤塚らは、次の目的を「タモリを芸能界入り(芸能事務所に所属)させる」に設定し、赤塚宅での居候生活は田辺エージェンシー入りする直前まで継続され、途中には妻も呼び寄せている。
赤塚らと飲み屋で騒ぐ中で、放送作家の高平哲郎らとも知り合うなど、芸能界的な人脈も増えていく。売り出すための算段などが練られて、「戦後最大の素人芸人」というキャッチフレーズが作られたり、浅井慎平がサイレント映画の大スター・ルドルフ・バレンチノ風にスタイリングしたアイパッチ姿をトレードマークとするなど、徐々にキャラクターが作り込まれていった。
特異な芸風から所属事務所が中々決まらなかったが、高平の紹介を受けて大手芸能プロダクション・田辺エージェンシーと契約を結ぶ。大恩人ともいえる社長の田邊昭知とは、後に親友になっている。
なお、芸能界入りする際、4つの戒律を自らに掲げたという。
・誰の弟子にもならない
・組織には属さない
・頭をなるべくさげずにカネをもうける
・色紙にサインをするときは、名前の横に添えるモットーのようなものは持たない
田辺エージェンシー所属後
1976年4月、東京12チャンネルの『空飛ぶモンティ・パイソン』で、正式なメディアデビューを果たす。その後、バラエティ番組『金曜10時!うわさのチャンネル!!』(日本テレビ系列)にもレギュラー出演が決まるが、この時期は「タモリ専用のコーナー」で密室芸をするという形が取られていた。30歳で芸能界入りした為、ビートたけし、笑福亭鶴瓶、明石家さんまなどは年齢が下だが先輩になる。
当時の芸は、イグアナの形態模写に代表される体芸、反知性を打ち出した中洲産業大学教授、デタラメ言語「ハナモゲラ」など、他の芸人とは一線を画しており、テレビ的にはキワモノ芸人的存在と考えられていた。本人は、イグアナの形態模写と称してブリーフ一枚で芸を行う等キワモノとして扱われていた当時を「今で言えば江頭2:50が出てきた様なもので、江頭よりもっと気持ち悪がられていた」と評している。
同年10月からは、『オールナイトニッポン』(ニッポン放送)でパーソナリティを務めるようになり、徐々にマニアックな層からの支持を集めていく。また、この頃、山下洋輔主催の全日本冷し中華愛好会に参加した。
1977年には、赤塚不二夫、滝大作、高平哲郎らと「面白グループ」を結成。週3回以上の宴会を催し、その成果を何らかの方法で発表することを目的にした団体であり、まもなく、坂田明、内藤陳、小松政夫、団しん也、たこ八郎、三上寛、研ナオコ、柄本明、所ジョージ、アルフィー、劇団東京ヴォードヴィルショー(一部メンバー)も参加。ビートたけしも参加しようとしていたが、たけしはタモリの芸風を嫌ってすぐに脱退したという。
なお、同年10月29日、面白グループ旗揚げ公演として、渋谷公会堂で「輝け!第一回いたいけ祭り」という、タモリや赤塚の「宴会芸」を見せるイベントを行う。
1979年には、赤塚が企画した映画『下落合焼とりムービー』に出演。また、1981年には、面白グループ名義で、当時ヒットしていた女子大生2人が執筆した書籍『ANO・ANO(アノアノ)』のパロディ本、『SONO・SONO(ソノソノ)』を刊行するなどしていた。
1980年からは、芸能生活僅か5年のキャリアで、お笑いオーディション番組「お笑いスター誕生!!」に、審査員として出演し若手芸人を講評していた。同番組に出場したとんねるずに対して、タモリ、赤塚以外の審査員らにはとんねるずの芸は不評だったが、2人のみが「何か良いんじゃないか」と高評価であったと後年とんねるずは語り、それ以前から尊敬していたがさらに崇拝度合いが増したと語っている。
1980年代
1980年代に入ってからは、密室芸の披露の場を減らし、『ばらえてい テレビファソラシド』(NHK)、深夜バラエティ番組『今夜は最高!』(日本テレビ系列)などで、知性的な部分を前面に打ち出すようになり、ファン層を拡大していく。ただし、当時は下ネタ発言が多く、夜の番組の芸人というイメージが強かった。
その一方で1980年10月からニッポン放送において、夕刻のナイターオフシーズン放送として主婦向けトークバラエティー「だんとつタモリ おもしろ大放送!」が放送開始。主婦向けに夜の生活秘話などのきわどいトークで人気を集めるようになった。この番組がきっかけになり、1982年、当時フジテレビのプロデューサーだった横澤彪が、「夜の顔を昼に」とタモリを昼の帯番組に起用するという荒業に出る。『森田一義アワー 笑っていいとも!』・『笑っていいとも!増刊号』(フジテレビ系列)は開始当初こそ視聴率が低迷したものの、間もなく人気となり、2014年3月31日の放送終了まで31年半続く長寿番組となった。
また、深夜番組向けであるタモリ本来の芸風を崩さない目的で、所属する田辺エージェンシーが制作に加わる深夜番組『タモリ倶楽部』(テレビ朝日系列)が放送開始され、30年以上続く長寿番組となっている。
『いいとも』で司会術を磨き、1983年には芸能生活たった8年のキャリアで『第34回NHK紅白歌合戦』(NHK総合テレビジョン)の総合司会を務めることになる。NHKアナウンサー以外が「紅白歌合戦」の総合司会を務めるのは史上初という異例の起用だった。また、1987年4月3日からは音楽番組『ミュージックステーション』(テレビ朝日系列)の総合司会を関口宏から引き継ぎ、2017年には30周年を迎えた。
1990年代
1990年代以降は、趣味や知識(本人曰く「広く浅く」)を前面に打ち出すようになり、『タモリ倶楽部』の他にも、『タモリの音楽は世界だ!』(テレビ東京系列)、『タモリのボキャブラ天国』『タモリのジャポニカロゴス』(フジテレビ系列)、『ブラタモリ』(NHK)などの冠番組を持った。
2000年代
2001年11月5日、友人とゴルフ中、友人の打ったゴルフボールが頭部に当たり、左こめかみ付近を負傷し、15日まで検査入院した。期間中は生放送番組である『いいとも』と『ミュージックステーション』の両番組を欠席し、『いいとも』は各曜日レギュラーが、『ミュージックステーション』はアシスタントの武内絵美アナウンサーとKinKi Kidsら当日のゲストが曲順ごとに輪番制で総合司会代行を務めた。
2002年4月5日、『笑っていいとも!』が放送5,000回を達成。「生放送単独司会世界最高記録」としてギネスブックに登録された。
2002年4月~翌年3月、「TVガイド」創刊40周年のCMに出演。タモリがインチキ外国語を喋るCMで、中国・フランス・ドイツ語バージョンと、韓国・ロシア・イタリア語バージョンが作られた。
2002年5月、『タモリ倶楽部』内企画「プロジェクトSEX 性の挑戦者たち~シリコンの女神を創った男達」が平成13年度 第39回ギャラクシー賞奨励賞を受賞。
2002年8月、23年間マネージャーを務めた前田猛が急性くも膜下出血のため死去。田辺エージェンシー社長の田邊昭知と共に葬儀委員長を務めた。
2004年10月16日、「TOKYO1週間」での連載「TOKYO坂道美学デートNAVI入門」をまとめた書籍『TOKYO坂道美学入門』が発売された。
2006年1月3日、短編映画『やどさがし』公開。三鷹の森ジブリ美術館でのみ上映されている約12分の短編アニメーションで、タモリはすべての効果音や擬音を声で演じた。
2007年2月、鈴木良雄・伊藤潔・五野洋ら共に、ジャズレーベル「ONEレーベル」を設立。「ONE」は「一義」から取られたもの。5月16日に「ONEレーベル」から第1弾CDとして、鈴木良雄トリオの「For You」を発売。12月5日には、第2弾CDとして鈴木良雄率いるBASS TALKの『Love Letter』が発売された。
2007年6月5日、TOYOTAエコWEBマガジン「あしたのハーモニー」が創刊し、編集長を務めた。
2007年9月8日、木村拓哉から直々のオファーを受け、『HERO』に出演。
2007年11月26日、ライブ「中洲産業大学&ほぼ日刊イトイ新聞 presents 『はじめてのJAZZ2 ヒストリーもたのしみなりー!』」(昭和女子大学 人見記念講堂)が開催され、20数年ぶりに中州産業大学・タモリ教授のジャズ講座が復活した。
2008年2月24日、『ANN』40周年記念番組『俺たちのオールナイトニッポン40時間スペシャル』の中で『タモリのオールナイトニッポン』を放送した。
2008年8月2日、赤塚不二夫が肺炎のため死去。7日の告別式ではタモリが生涯で初めて弔辞を読み「私もあなたの数多くの作品のひとつです」と語った。この弔辞は9月刊行の『文藝春秋』(10月号)に全文が掲載された。
マリーナメンバーの高齢化を危惧し、若い世代をヨット界に集めよう、ヨットレース「タモリカップ」を2008年から、ヤマハマリーナ沼津にて開催した。
2010年代
2010年4月9日、第2回伊丹十三賞受賞。「テレビというメディアに『タモリ』としか名づけようのないメディアを持ち込み、独自の話芸と存在感を発揮する稀な才能」と評価された。
2011年10月10日放送の『タモリ・中居の手ぶらでイイのに…!?~ドラマチック・リビングルーム~』が、第49回ギャラクシー奨励賞を受賞。
2012年7月21日から22日にかけて生放送された『FNS27時間テレビ笑っていいとも!真夏の超団結特大号!! 徹夜でがんばっちゃってもいいかな?』では『いいとも』放送30周年を記念し、89年の第3回目以来の総合司会を務めた。
2013年5月、『タモリ倶楽部』が第50回ギャラクシー賞テレビ部門特別賞を受賞。
2014年3月21日、『いいとも!』のコーナー「テレフォンショッキング」に、現役首相として初めて安倍晋三が出演。新聞の首相動静欄に「タモリと会食」と載せたいタモリの要望により、一緒にイチゴを食べるが、翌日、新聞各紙は「会食」に触れず、朝日新聞は「試食」と表現した。
2014年3月31日、『笑っていいとも!』が最終回を迎える。1982年10月4日から続いてきた全8,054回の当番組は、『生放送バラエティー番組 単独司会最多記録』として、ギネス記録に認定された。
2014年9月、サントリー「プレミアムボス」宇宙人ジョーンズシリーズの新CMに出演。『笑っていいとも!』のテレフォンショッキングを模したスタイルおよびスタジオセットで、イグアナのモノマネなどを披露した。CMのコピーは「この惑星のテレビはタモリがいないと寂しい」。
2014年10月15日、授賞理由は「独自の視点を持つ数多いテレビ番組の『顔』として、日本の笑いを革新した」ことが評価され、第62回菊池寛賞を受賞した。
2014年12月31日、『第65回NHK紅白歌合戦』に審査員として、総合司会を務めた第34回以来、31年ぶりに出演。
2016年、日本テレビ系列スペシャルドラマ『天才バカボン』の主題歌を担当。
2016年6月、一般社団法人めぐろ観光まちづくり協会の名誉会長に就任。
2016年12月19日、『SMAP×SMAP』内企画『ビストロSMAP』の最終回に、最後のゲストとして出演。実食のコーナーでは、中居の提案とタモリの発声で、タモリとSMAPの6人皆で食事を楽しんだ。勝負の判定で、タモリは「最終回だから判定はしない」「どっちも美味しかった」「人生で判定なんかどうでもいいこと」として、判定なしとした。また、勝者へのプレゼントでは、SMAPメンバー5人分を用意し、星型のオブジェにSMAP×SMAPのロゴと、メンバーの名前、タモリの名前が入った小物を贈った。
2018年7月19日に発売された週刊新潮2018年7月26日号において、脚本家の中園ミホとの不倫密会が報道された。しかし、所属事務所の田辺エージェンシーは報道を否定した。
2018年10月1日、福岡県うきは市出身の妻の縁で、うきは市の「ふるさと大使」に就任。任期は2020年6月末まで。
※「タモリ倶楽部」は現在TELASAテラサでは配信されておりません。
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