TOKYO MXで放送されている声優学バラエティ番組「声技の英雄(セイギノヒーロー)」の無料動画や見逃し配信などの無料視聴方法について紹介したいと思います。
この「声技の英雄(セイギノヒーロー)」の動画配信なのですが、「声技の英雄(セイギノヒーロー)」は現在動画配信されておりません。
TOKYO MXで放送されている番組は特定の動画配信サービスで配信はされないですが、今後もし動画配信されるとしたら、それは動画配信サービスU-NEXTでの配信になると思われます。
目次
「声技の英雄(セイギノヒーロー)」以外にU-NEXTで見れる動画
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※現在「声技の英雄(セイギノヒーロー)」は配信されておりません。
「声技の英雄(セイギノヒーロー)」ノンピリオドレコーディングの様子
「ノンピリオド」レコーディングの様子をより詳しくお届けします !
様々なプレッシャーを背負いながら、5人それぞれ今の精一杯をこの1曲に込めました。
”未完成を愛せ、今日だけの瞬間を肯定していこう”
「声技の英雄(セイギノヒーロー)」の出演者
ゲスト
藤永龍太郎
ゲスト
冨田明宏
出演声優
白河みずな
戸谷菊之介
日原あゆみ
柳澤良音
山口諒太郎
※現在「声技の英雄(セイギノヒーロー)」は配信されておりません。
「声優」について
「声優」は、映像作品や音声作品に、自身の姿を見せずに声だけで出演する俳優。広義にはナレーターも含まれる。職業を示す意味で使われる場合と映像・音声作品の役割、職能を表す場合がある。
声優は当初、ラジオドラマを専門に行う東京放送劇団やその他の放送局の劇団員・ラジオ俳優を指し、テレビ時代になって吹き替えとアニメを行う役者を指す用語として定着して行った。
『読売新聞』で1926年(昭和元年)から使用されていることが知られ、呼称の由来は以下の2説があり、未だに明確になっていない。
読売の芸能記者だった小林徳三郎による
NHKの演芸番組担当プロデューサー・大岡龍男が命名した。
声のみで演技する実演家であり、日本の声優の多くは日本俳優連合に加盟しているが、俳優とは異なり声に特化した役者と見なされている。またニュースで原稿を読み上げるキャスターやアナウンサーなど放送・報道分野の業務に携わる者とも区別される。
アニメーション作品ではしばしばキャラクターボイス(character voice)、略してCVという和製英語が使われる。これは1980年代後半にアニメ雑誌『アニメック』で副編集長だった井上伸一郎が提唱した用語で、その後、井上が角川書店で創刊した『月刊ニュータイプ』でも用いられている。また、昭和時代の作品では、おもにエンディングのクレジットでは「声の出演」と表記されることが多かったが、平成から令和にかけての現在では「キャスト」ないし「CAST」「CV」(キャラクターボイス)と表記されることが多い。
フィックス制度により性格俳優としての側面もある。
日本では歴史的な経緯から声優を専業とする例が多い。海外では、俳優の仕事の一部という側面が大きいが、アメリカでも声優専業の役者が増え、演技学校で声優コースを設けているところもある。
2000年代からは歌手としての活動、写真集を出すなどタレント的な活動も増えている。
「声優」の歴史
日本で声優の専業化が進んだ理由は、
ラジオドラマ全盛期に、NHKと民放が自前の放送劇団(NHK東京放送劇団など)を組織して専門職・ラジオ俳優を育成したこと
テレビの黎明期は、番組コンテンツ不足のため、アメリカ合衆国からテレビドラマやアニメーション(日本での「アニメ」とは異なる)が大量に輸入され、声優による日本語吹き替えの需要が増大したこと
アニメやゲームの人気の高まりにより、最初から声優専門の演技者を志望する者が増えたこと
などが考えられる。
音声メディアの可能性は、「文学立体化運動」の提唱から雲の会(1950年〈昭和25年〉結成)を主宰した岸田國士、日本での近代批評文学の先駆者となった小林秀雄、日本における正統劇(せりふ劇)の確立を提唱した福田恆存などの文学者によって指摘されている。
岸田は「『語られる言葉』の美」(1928年〈昭和3年〉)の中で、黎明期のラジオドラマや映画物語に言及し、語り手による聴き手の想像力の喚起こそが、発展性の要であると論考している。小林は『年齢』(1950年〈昭和25年〉)や『喋ることと書くこと』(1954年〈昭和29年〉において、において、「話し言葉」を重視する言語観を表明し、『本居宣長』(1977年〈昭和52年〉)では「姿は似せ難く、意は似せ易し」と言葉が作り上げる姿の有り様を示している。
福田は「言葉は行動する」との言語観から『ハムレット』(1955年〈昭和30年〉上演)を始めとしたシェイクスピア戯曲の翻訳と演出を行い、1963年(昭和38年)には現代演劇協会を主宰した。その活動は演劇にとどまらず、ラジオドラマの制作と戯曲化による舞台上演、アテレコ論争の先取、アニメ映画『千夜一夜物語』(1969年〈昭和44年〉公開)への劇団雲の参加など、連続的に声の出演にも及んでいる。
民間放送開始の1951年(昭和26年)には、雲の会の刊行雑誌『演劇』の企画で、小林と福田の対談が行われ、示唆に富むやり取りが交わされている。
福田 ほかの感覚に比べて?
小林 ええ。眼に比べてね。 特に耳を訓練している少数の人々をのぞけば。だからまだラジオ・ドラマをちゃんと聴ける耳を持っている人はいないと思うんですよ。人の声っていうものは、非常に表情に富んだものでしょう。見ないで、声で人間がわかる、そこまで耳の訓練が出来ている人はいないんだよ。ラジオ・ドラマが非常に発達すると、そういう訓練ができるかも知れない。そうすると、見なくても、声のほうがよっぽど表情的でね、ラジオ・ドラマ専門の名優というものが出てくる。……ぼくら、眼を開けて暮しているから、耳はおろそかになっている。芝居っていうやつは、眼と耳と両方で鑑賞しているしね。まあ、はなし家や講釈師になるとどうかな。例えば落語だって、話術の生命はやっぱり物語を追ってるんだけども、同じ物語を何度聴いてもいいでしょ? 何度聴いてもいいというのは、つまり音なんだよ。そいつの声の音楽なんだよ。そいつを聴いて楽しんでるわけだな。
— 『芝居問答』 音・耳・放送劇
声の出演契約を巡っては、日本俳優連合により「外画協定」(1978年〈昭和53年〉)、「動画協定」(1981年〈昭和56年〉)が締結され、権利面、経済面での定着を見ている。
時を同じくして『宇宙戦艦ヤマト』(1977年〈昭和52年〉)に始まるアニメブームは、新たな人材の採用志向を強め、『超時空要塞マクロス』(1982年〈昭和57年〉)に代表される作品を出現させている。一連の声優ブームは、声優に特化した芸能事務所や声優養成所の伸長に繋がり、現在に至る声優像の多様化の原点となっている。
この時期に声優論を展開した人物には、アニメ演出家の富野由悠季が認められる。
富野は手塚治虫原作の漫画『鉄腕アトム』のアニメ化に始まるテレビアニメの黎明期より活躍し、1981年(昭和56年)には「アニメ新世紀宣言」を提唱した。それに先立ち、日本俳優連合の外画動画部会で交渉委員を務め、アテレコ論争への反論を行う永井一郎との対談を企画している。
また、代表作と目される『機動戦士ガンダム』(1979年〈昭和54年〉)の制作中には、アニメ制作のスタッフの立場から、声優志望者に向けて声優観が表明されている。
なぜ?なぜだろう?……そう。声一つとっても、肉体があるから、人格があるから、多種多様の声があるのだ。人格(人としての)のあらわれが声である。声だけで人間は存在しないということなのだ。これを、当たり前と感じた瞬間から、あなたは声優入門の第一歩を見失なうだろう。(中略)
そして、最後に具体的に指針を示そう。本当に声優になりたいあなたなら、まず〝演技〟という単語を辞書で調べることぐらいやってごらんなさい。次にこの稿の中の知らない単語も調べなさい。そして、本当の最後です。〝さ、し、す、せ、そ〟と叫んでごらんなさい。あなたの声に、表情がありますか? なければ、表情をつけてごらんなさい。あなたの俳優修行の始まりです。
— 富野善幸『声優へのスタート』
2005年(平成17年)、新国立劇場が演劇研修所を開所している。2007年(平成19年)、日本声優事業社協議会が設立されている。
レコード時代
1877年(明治10年)7月、アメリカでトーマス・エジソンが録音再生式の蓄音機を発明する。
日本では明治維新後、内閣制度が創設される頃になると、文明開化の影響が言文一致運動に象徴されるソフト面に見られ始める。1885年(明治18年)9月、坪内逍遥が『小説神髄』を著し、日本の近現代文学史の本格的な始まりを告げた。1886年(明治19年)8月には、歌舞伎の近代化を志向した演劇改良会が結成された。逍遥はシェイクスピア戯曲の翻訳や歌舞伎演目『桐一葉』の創作、森鴎外との没理想論争など明治期の文芸演劇界で幅広く活躍した。これらの影響もあり高まった芸術熱を受けて、島村抱月が留学から帰国した翌年、1906年(明治39年)2月には、文芸協会を設立している。また、1909年(明治42年)11月には、小山内薫と市川左團次が自由劇場を発足させている。
明治の末になるとハード面での近代化が進み、1910年(明治43年)10月、日本で最初のレコード会社が設立される。1911年(明治44年)3月には、帝国劇場が開場する。同年5月、文芸協会によりシェイクスピア戯曲『ハムレット』、11月にイプセン戯曲『人形の家』が上演される。好評を博した新劇女優の松井須磨子は、文芸協会付属演劇研究所の1期生であり、女優養成は画期的な成果であった。また、2期生からは新国劇の創設者となる澤田正二郎が輩出されている。
1913年(大正2年)7月、抱月と須磨子は芸術座を結成し、1914年(大正3年)3月の第3回公演では、抱月の再脚色においてトルストイの小説『復活』を上演した 。須磨子が歌唱した劇中歌『カチューシャの唄』はレコード販売もされ、近代日本初の流行歌となった。同盤には歌唱だけでなく第三幕の科白の一節も収録された。同年10月、シェイクスピア戯曲『アントニーとクレオパトラ』が抱月の改作により上演され、公演後には出演者が録音スタジオに集まり舞台の粋を収録している。これは科白のみのオーディオドラマであり、12月には「沙翁劇『クレオパトラ』」として発売された。
大正時代には曾我廼家一座、宝塚少女歌劇、浅草オペラなども音源を残している。
ラジオドラマ時代
1925年(大正14年)3月、NHKの前身である社団法人東京放送局がラジオ放送を開始する。
そのわずか1か月後に『映画劇せりふ』の番組内でサイレント映画『大地は微笑む』のセリフ劇が放送された。このときの声の出演は新派劇俳優の井上正夫、女優の栗島すみ子などであった。専門職としてではないが、実質的に彼らが「日本で最初の声優」である。同年7月には舞台中継をスタジオで再現した『桐一葉』(出演:中村歌右衛門(5代目)など)、さらに日本初の本格的なラジオドラマとして『大尉の娘』(出演:井上正夫、水谷八重子)が放送される。8月に小山内薫の演出、和田精の音響効果で放送された『炭鉱の中』とする説もある。出演者の一人であった山本安英は後に東京放送劇団の指導者を務めている。
同年8月、東京放送局にラジオドラマ研究会が設立される。長田幹彦、小山内薫、久保田万太郎、久米正雄、長田秀雄、吉井勇の6人を主要メンバーとした。更に聴取者の獲得の為に著名な文士に一編五百円で脚本を委嘱する。当時の五百円は一軒家が建つほどの金額であり、2年間で「五百円ドラマ」に脚本を寄せた文士の顔ぶれは里見弴、松居松翁、小山内薫、長田秀雄、吉井勇、久保田万太郎、岸田國士、菊池寛、山本有三、中村吉蔵、岡本綺堂の11人であった。
同年9月、東京放送局は声だけで演技を行う専門の俳優としてラジオドラマ研究生を公募。100名あまりの応募者のうち12名の女性が選ばれ、11月にラジオドラマ『太っちょう』に声をあてる。声優の歴史に関する多くの資料では彼女たちが「日本の声優第1号」とみなされている。この当時は新聞では「ラヂオ役者」と呼称していた。初期のラジオドラマには汐見洋や東山千栄子などこの前年に開場した築地小劇場の俳優が多く出演していた。
1926年(大正15年)8月、東京・大阪・名古屋放送局の3法人が解散し、後継組織として日本放送協会が発足する。
1928年(昭和3年)からは新人育成を目的とした懸賞募集が開催されて行き、真船豊、森本薫、三好十郎、八木隆一郎、北条秀司、伊馬春部などが執筆した。
1931年(昭和6年)8月から1938年(昭和13年)8月まで日本放送協会の文芸課長に久保田万太郎が就任する。久保田は文芸路線を掲げて、夏目漱石や泉鏡花、ルナールやユーゴーなどの国内外の文学のラジオドラマ化を推進した。また、久保田の演劇界での人脈を活用して井上正夫、喜多村緑郎、村瀬幸子、田村秋子、友田恭助などの新派や新劇で第一線の俳優を起用している。文芸課職員であった小林徳二郎は後に「これは新劇の俳優が商業劇場に出演できなかった当時では、ラジオ放送だけにしか行い得ないことで、久保田の手腕によるものであった。いまでいえば久保田課長は芸術面ばかりでなく、政治力を兼ねた名プロデューサーであった」とその意義を述べている。この頃(おもに1930年代)活躍していた者として舞台女優の飯島綾子が挙げられる。彼女はラジオドラマのほかに日本舞踊家や歌手(流行歌・歌謡曲・童謡オペレッタ)としても多彩な活動をしていた。1925年(大正15年)~1938年(昭和13年)にかけてラジオドラマの総放送回数は750回を数えるまでに成長した。
1941年(昭和16年)、NHKはラジオドラマ専門の俳優を養成する東京中央放送局専属劇団俳優養成所の研究生を公募。1943年(昭和18年)に養成を終えた東京放送劇団の第1期生がデビューを果たした。これが声優第2号とみなされ、「声優」という言葉はこのころから使われたとする資料もある。
1951年(昭和26年)に民間ラジオ局のラジオ東京(現・TBSラジオ)が開局、専属の放送劇団(ラジオ東京放送劇団、のちのTBS放送劇団)を設立して1957年(昭和32年)に放送した連続ラジオドラマ『赤胴鈴之助』は当時の子供たちから絶大な支持を得た。テレビ放送がなく、ラジオがマスメディアで主要な地位を占めていたラジオドラマ時代の声優は決して日陰の存在ではなく、二枚目の主役の声を多く演じた名古屋章には月に何十通ものファンレターが届いたという。ラジオドラマは全盛期を迎え、声優の紹介記事が新聞のラジオ欄に掲載されるようになると、声優へのファンレターと同時に声優に憧れ、声優志願者も急増した。1953年(昭和28年)のNHK東京放送劇団の第5期生募集には合格者が10名程度のところへ6,000名の応募が殺到したという。この時代を声優の勝田久は第1期声優黄金時代としている。
アニメでは、1933年(昭和8年)には日本初のトーキーの短編アニメーション映画『力と女の世の中』が公開。アニメキャラクターに声をあてたのは、喜劇役者の古川ロッパをはじめとする映画俳優達だった。1942年(昭和17年)には中国の長編アニメーション映画『西遊記・鉄扇姫の巻(鉄扇公主)』が日本で公開され、活動弁士出身の徳川夢声、山野一郎などが声をあてた。第二次世界大戦後に発足した東映動画により日本でもコンスタントにアニメ映画が製作されるようになると、映画俳優、コメディアン、放送劇団員が使われた。また、洋画の吹き替えはテレビ時代になってから本格的に行われるようになった。
第1次声優ブーム
民放テレビの草創期には、1961年(昭和36年)の五社協定でテレビ局への日本映画の供給停止が決まったことなどによるソフト不足から、海外ドラマや洋画などのいわゆる外画の日本語吹き替え版が数多く放送された。当初、NHKは基本的に字幕スーパーで日本国外の作品を放送していたため、日本語吹き替え版は民放が中心となっていた。以後、日本国外の作品は1960年代前半をピークとして放送された。これらを背景として声優人気が高まっていったという。ブームの中心人物はアラン・ドロンやジュリアーノ・ジェンマなどを持ち役とした野沢那智で、追っかけまでいたという。
テレビや映画の俳優は五社協定とギャラの問題で吹き替えをしなかったため、テレビでの吹き替えは、ラジオ時代からの放送劇団出身者や新劇の舞台役者が多く行った。放送劇団出身の若山弦蔵は当時の吹き替えに参入してきた新劇俳優について、「大部分の連中にとっては片手間の仕事でしかなかった」「日本語として不自然な台詞でも疑問も持たず、台本どおりにしか喋らない連中が多くて、僕はそれがすごく腹立たしかった」と語っている。また、この時期には役者論、演技論としてのアテレコ論争が展開されている。海外アニメにおいては、落語家や浅草出身のコメディアンなどもキャラクターの声をあてたという例がある。
労働環境や待遇は恵まれていなかったことから権利向上のために結束しようという動きがあり、久松保夫は清水昭の太平洋テレビジョンに参加するが同社で労働争議が発生。これを受けて東京俳優生活協同組合(俳協)が誕生したが、前述の若山弦蔵のように所属せず独立した者もいた。のちに俳協から分かれて多くの声優プロダクションが結成された。この時代にはまだ声優という言葉は一般には認知されておらず、別称として、吹き替えを主にしたことから吹き替えタレント、声をあてることからアテ師というものがあった。
テレビの日本語吹き替え作品第1号はTBSの前身であるKRTテレビが1955年(昭和30年)10月9日より放送開始したアメリカのアニメ『スーパーマン』であると言われる。実写では1956年(昭和31年)にTBSの前身であるKRTテレビで放送された『カウボーイGメン』と記録されている。これらKRTテレビでの放送はいずれも生放送による吹き替えで、あらかじめ録音したアフレコによる作品第1号は、アニメでは1956年(昭和31年)4月8日に日本テレビが、番町スタジオの安井治兵衛に依頼して放送した海外アニメ『テレビ坊やの冒険』である。
1966年(昭和41年)に『土曜洋画劇場』(現・『日曜洋画劇場』)の放送が始まり、この番組によってスターの声を特定の声優に固定する持ち役制(フィックス制度)が始まった。
第2次声優ブーム
最初に認知されたアニメ声優として、当時子役ながら海のトリトンで主役を演じた塩屋翼が知られており、以降に第2次声優ブームが1970年代後半の劇場版『宇宙戦艦ヤマト』のヒットによるアニメブームと並行して起こった。
そのブームに押される形で声優業と並行した音楽活動も盛んになり、神谷明、古谷徹、古川登志夫などのアニメの美男子キャラクターを持ち役とする人気声優によるバンド「スラップスティック」を結成してライブ活動を行ったほか、多くの声優がレコードを出すなどした。当時万単位のレコードを売り上げる声優として、潘恵子、戸田恵子、神谷明、水島裕、スラップスティックの名が挙げられている。
また『宇宙戦艦ヤマト』で森雪を担当した麻上洋子(現講談師・一龍斎春水)はアニメが好きで声優になりたくて声優になったことが知られ、声優養成所が排出した初の声優とされるだけでなく、アイドル声優の始祖といえる存在で、その系譜が小山茉美、潘恵子へと続く。自身のアルバムを4枚出した潘恵子は元祖アイドルと呼ばれた。
1979年(昭和54年)に放送開始した『アニメトピア』など、アニメ声優がパーソナリティを務めるラジオ番組なども誕生。ラジオドラマでは声優人気を背景にした『夜のドラマハウス』があり、アマチュア声優コンテストも開催されていた。
この時代はアニメ雑誌が創刊され始めた時代でもあり、『アニメージュ』の創刊編集長である尾形英夫は、声優のアイドル化を編集方針のひとつとして打ち出した。『アニメージュ』以外のアニメ誌も同様に誌面に声優コーナーを設けて、定期的に声優の情報を発信した。
人材の供給・育成面では、声優専門プロダクションが分裂することによって次第に数が増え始め、同時に各プロダクションにより声優養成所が設けられた。これらにより、放送劇団出身者や舞台役者などの俳優活動の一環や余技としての声優業ではなく、最初からアニメ声優を目指した声優が登場し始めた。このブームはおおむね1980年代前半ごろまでとされている。
1990年前後
1980年代後半から「声優のアイドル化」あるいはアニメ・イベント(ショー)への出演による「顔出し」が一般的になった。例えば1980年代末のテレビアニメ『鎧伝サムライトルーパー』に出演した5人の男性声優で1989年に結成したユニット「NG5」が人気を集め、ニュース番組で取り上げられるほどであった。声優がマルチ活動をするようになった先駆け的グループであるとも言われている。1993年(平成5年)からのOVAシリーズ『アイドル防衛隊ハミングバード』以後に急速に見られるようになった、アニメ作中のキャラクターと実在の声優を様々な形で相互に連想させるようなメディア的な演出によって、表舞台に立つ存在になった。こうして、アイドル的なイメージ構築によるアイドルファンのアニメファンへの取り込みがなされるようになる。
そして、林原めぐみなどの女性声優がレコード会社と契約を行って歌手活動をする例が増えてくる。
さらに、1990年代になって、吹き替え作品が、地上波放送のほかにも、DVDなどのパッケージやCS放送などさまざまな形態で発信されるようになると、同じ作品でも複数の吹き替えが作られる例が増加した。このため、従来の持ち役制度はほぼなくなったとする指摘もあるが、森川智之のトム・クルーズのように同一の声優が同じ役者を吹き替え続ける慣習は残っている。
第3次声優ブーム
用語として、おおむね1990年代半ばから後半にかけて、頻繁に用いられていたが、明確な定義は存在していない。第1次、第2次という使い方も、この用語から逆算的に使用されたもので、こちらも明確な定義は存在していない。この時期の特徴として、「声優のマルチ活動化や歌手活動への進出によるアイドル化」「声優の音声入りのテレビゲームやパソコンゲームの登場による仕事の増加」「声優がパーソナリティを務めるラジオ番組の普及」などが挙げられる。このことから、声の演技力のほかにも、特にアニメ・ゲームで活躍するには容姿のよさや歌唱力などといったようなことも声優に求められるようになったとされる。
1994年(平成6年)に初めての声優専門誌となる『声優グランプリ』と『ボイスアニメージュ』が相次いで創刊された。1995年(平成7年)に初の声優専門のテレビ番組『声♥遊倶楽部』が放送された。
清水香里や坂本真綾など、当時中学生でテレビアニメの主人公に抜擢される例もあり、アイドル的な注目を受けた。
1997年(平成9年)には椎名へきるが声優として初めて日本武道館で単独コンサートを開催した。椎名は声優が必ずしもアニメや外国映画吹き替えなどの、映像中のキャラクターの影という声の代行者という役割ではなく、声優そのものがスター性を持った存在となり得ることを最初に示した先駆者とみられている。
またアニメ作品で声を担当した声優が舞台公演等でその担当したキャラクターを演じる例の先駆として、サクラ大戦シリーズ#歌謡ショウが始まる。これは1997年(平成9年)から2007年(平成19年)まで続くが、サクラ大戦帝国歌劇団花組のキャラクターの声を演じている声優が、実際に舞台上でそのキャラクターを演じるミュージカル仕立ての公演で、それまでアニメ原作の舞台では俳優が演じていたが、アニメとの声の違いを指摘した子供がいたことで、サクラ大戦シリーズの総合プロデューサーである広井王子は、キャラクターの担当声優を決める際に、舞台公演も視野に入れてキャスティングしていた。
2000年ごろから
1990年代より活動していた水樹奈々、田村ゆかりや、舞台俳優から転向した宮野真守などの「声優アーティスト」としての成功や、2005年(平成17年)から開催されているAnimelo Summer Liveなどのアニメソング系の合同フェス的なライブの普及などにより、声優と歌手活動を両立させる声優がこの時期以降ますます増加するようになった。特に水樹は、ドームツアーやNHK紅白歌合戦への出場など、声優として初の音楽活動を行っていることが多い。
2010年代半ば以後はこの傾向が年々顕著になり、歌手としての日本武道館での単独公演を実現させる声優が、ほぼ毎年のように現れるようになっている(一例として、内田彩、東山奈央、内田真礼など。特に東山は、自身初めての単独公演が日本武道館での開催であった)。
2000年代後半ごろから、一部のマスコミで「第4次声優ブーム」という表現が用いられるようになった(ただし、明確な定義はない)。このころから、子どもの「なりたい職業ランキング」の上位に「声優」がランクインするようになった。
2000年代後半以降、深夜アニメの本数が急速に増加。これにより、いわゆる「アニメバブル」という状況が生まれた。新人声優デビューは増加の一途をたどり、水瀬いのり、林鼓子、楠木ともりなど当時10代でテレビアニメの主演を務める例も、以前よりみられるようになった。
さらに、『ラブライブ!』や『アイドルマスター』『けいおん!』『BanG Dream!』『あんさんぶるスターズ!』など、ゲームやアニメ番組から派生した企画による声優ユニットが男女を問わず人気を博すことも多くなっていく。
特に『ラブライブ!』のμ’sは、東京ドーム公演やNHK紅白歌合戦への出場するなど人気を獲得した。このため、現在の声優は演技だけではなくアイドルのように、ルックス、歌唱力、ダンススキルが求められる例もある。逆に田野アサミ(元BOYSTYLE)や仲谷明香(元AKB48)、前島亜美(元SUPER☆GiRLS)など、アイドルから声優に転身する例も増えているとされている。
2010年代から小宮有紗、美山加恋、福原遥のように声優・俳優・歌手を兼業する者もいる。2010年代後半にはバーチャルなキャラクターを製作し、それに声優が声をあててYouTubeなど動画配信を利用して配信するVTuberが出現するが、このキャラクターを「声優」として、YTuberがほかのアニメ・ゲーム作品等に声をあてるという現象が開始されている。
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