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目次
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「エリザベス女王国葬~愛された96年の生涯~」
先日、96歳で亡くなったイギリスのエリザベス女王。その国葬を生中継。在位70年、国民から愛された女王の素顔に迫る。
「エリザベス女王国葬~愛された96年の生涯~」の出演者
【出演】関東学院大学教授…君塚直隆
「エリザベス女王」について
「エリザベス女王」は、イギリスのウィンザー朝第4代女王(在位: 1952年2月6日 – 2022年9月8日)。即位から崩御するまで、イギリスの他14か国の英連邦王国及び王室属領・海外領土の君主、またイングランド国教会の首長(英語版)であった。
全名は、エリザベス・アレクサンドラ・メアリー(Elizabeth Alexandra Mary)。
1926年4月21日、父方の祖父である国王ジョージ5世治世下のイギリスにおいて、首都ロンドンのメイフェアで、ヨーク公アルバート王子(後の国王ジョージ6世)とエリザベス妃(スコットランド貴族第14代ストラスモア=キングホーン伯爵クロード・ボーズ=ライアン末娘)の第1子・長女として誕生。宮廷内で育てられた。
1936年12月11日、父のアルバート王子の兄であるエドワード8世が退位し、父がジョージ6世としてイギリス国王に即位すると、エリザベス王女は推定相続人(王位継承順位第1位)となった。また、第二次世界大戦中に英国女子国防軍に所属して公務に携わるようになった。
1947年に、フィリップ・マウントバッテンと結婚(英語版)。2人の間にはチャールズ(第1子/第1王子)、アン(第2子/第1王女)、アンドルー(第3子/第2王子)、エドワード(第4子/第3王子)の4人の子女(3男1女)が生まれた。
1952年2月6日、父の国王ジョージ6世が崩御し、1701年王位継承法に基づき、25歳の若年にして「女王エリザベス2世(Queen Elizabeth II)」としてイギリス女王(君主)に即位した。なお、夫のフィリップは共同君主・共同統治者ではなく、「Prince Consort(いわゆる王配)」の称号を持たなかった。1953年6月2日に執り行われた自身の戴冠式は史上初めてテレビ中継された。
イギリス女王に即位したことにより、イギリス連邦に加盟する独立国家7か国、すなわち、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(イギリス)、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ連邦、パキスタン、セイロンの女王(国王)になった。ただ、連合王国女王のレルムに属する国家および領土の数は1956年から1992年までに独立あるいは共和制移行により少しずつ減少していった。例えば、1956年3月23日には共和制移行によってパキスタン王の称号を失った。
エリザベス2世の存命中は、上記の国々のうち君主制が存続する4か国(英、加、豪、NZ)に加え、ジャマイカ、バハマ、グレナダ、パプアニューギニア、ソロモン諸島、ツバル、セントルシア、セントビンセント・グレナディーン、ベリーズ、アンティグア・バーブーダ、セントクリストファー・ネイビスの合計16か国それぞれが、英連邦王国としてエリザベス2世を君主(国家元首)としていた。クック諸島など、上記の国と自由連合制をとる国や、王室属領でもエリザベス2世を元首としていた。また、共和制国家を含むコモンウェルス・オブ・ネイションズ(英連邦)には50か国以上が名を連ね、エリザベス2世はその元首(コモンウェルスの長)として連帯の象徴であった。
2011年のアイルランド共和国への公式訪問(英語版)や、ローマ教皇との間の相互訪問など、多くの歴史的な訪問および会見をこなしただけでなく、イギリスにおける権限委譲(地方分権)やカナダ憲法におけるパトリエーション(英語版)のように、立憲君主制下での重大な憲法改正を自身の治世で目の当たりにしてきた。
この他の個人的な出来事としては、4人の子女(3男1女)の誕生と結婚、および8人の孫と12人の曾孫の誕生、プリンス・オブ・ウェールズの叙任(英語版)(立太子の礼に相当)、そして自身の在位25周年記念式典(英語版)(1977年)、在位50周年記念式典(英語版)(2002年)、在位60周年記念式典(英語版)(2012年)、在位70周年記念式典(英語版)(2022年)と、それぞれの祝事を経験した。
2007年4月21日、81歳となり高祖母たるヴィクトリア女王を抜いて、イギリス史上最高齢の君主になった。
2015年1月23日にはサウジアラビア国王のアブドゥッラー・ビン・アブドゥルアズィーズが90歳で崩御したことにより、88歳(当時)で存命する在位中の君主の中で世界最高齢になった。
2015年9月9日には、在位期間が63年と216日となり、高祖母であるヴィクトリア女王を抜いてイギリス史上最長在位の君主となった。
2016年4月21日に90歳の誕生日を迎えたが公務への意欲は衰えず、晩年まで積極的に取り組んでいた。彼女が2015年度に常時の住居であるバッキンガム宮殿やウィンザー城などの宮殿や居城で接遇した人数は9万6000人に及ぶ。イギリスでは年度ごとの叙勲者には、女王(国王)が一人ひとりに勲章や記章を手渡すことが慣例となっている。近年では長男のチャールズ3世国王(当時、皇太子)や孫の一人であるウィリアム王子もこれを担うようになってはいるが、それでも彼女がこなす公務は年間200件を越えていた。また、医療や福祉の充実、科学や芸術の振興、教育や歴史的文化財の保護、動物保護や環境保全などの団体の会長や総裁を務めた。関係する団体は、イギリス本国だけではなく、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなど英連邦王国構成国をはじめ世界16か国にまたがり、2016年8月時点で648団体にのぼった。
2016年10月13日にはラーマ9世(タイ王国国王)の崩御により、2022年4月21日時点(96歳)、存命の君主では世界第1位の長期在位君主となった。
2022年6月13日には在位期間が70年と127日となり、タイのラーマ9世前国王(在位:1946年-2016年)の記録を抜き、世界史上第2位の長期在位君主となった。1位はフランス国王ルイ14世(在位1643年~1715年)であり(在位:72年と110日。ギネス世界記録。)、もし2024年5月までエリザベス2世の在位が続けば、この記録が塗り替えられた。
2022年9月8日(現地時間)、静養先のスコットランドのバルモラル城で崩御した。96歳と140日没、在位期間は70年と214日で、イギリス史上最高齢かつ最長在位の君主であった。そして、エリザベス2世の長男であるチャールズ王太子が王位を新たに継承し、チャールズ3世としてイギリス国王に即位した。
生い立ち
国王ジョージ5世と王妃メアリーの次男ヨーク公アルバート王子(後の国王ジョージ6世)は、妹メアリー王女の結婚式で花嫁介添人(英語版)を務めたエリザベス(スコットランド貴族の第14代ストラスモア伯爵クロード・ボーズ=ライアンの末女)と、1923年4月26日にウェストミンスター寺院で結婚した。ヨーク公アルバートは、1925年に開催された大英帝国博覧会(英語版)の総裁を務め、この頃、妃エリザベスの懐妊が判明した。
翌1926年4月21日午前2時40分(BST)、ロンドン市内のメイフェア地区ブルートン・ロード17番地に所在する母方の祖父の家において、ヨーク公夫妻の間に、第一子・長女として誕生する。出産は帝王切開であった。
4月27日、ヨーク公夫妻は、母エリザベス妃、祖母メアリー王妃、そして1925年11月に崩御したばかりの曾祖母アレクサンドラ王妃から名を取って「エリザベス・アレクサンドラ・メアリー」と命名した。家族からはリリベット(Lilibet)の愛称で呼ばれていた。5月29日に、バッキンガム宮殿内のプライベート・チャペルで、ヨーク大主教(英語版)のコズモ・ラング(英語版)によって洗礼が施された。
祖父ジョージ5世は、初の内孫であるエリザベスを溺愛しており、1929年に自身が大病を患った際も、「彼女が定期的に見舞いに訪れたことが、病気の回復を早めるのに一役買った」と言われている。
1930年、4歳の時に、妹マーガレットが誕生した。ヨーク公爵一家は、ウィンザー城近傍のロイヤル・ロッジ(英語版)で生活した。
当時は、「結婚(将来)が保証される上流階級の女子には、教育は不必要」という慣習のある時代であった。しかし祖母メアリー王妃の方針により、姉妹揃って宮廷内で教育を施された。家庭教師マリオン・クロフォード(英語版)(愛称:クロフィ)は、当時23歳で、はじめ母エリザベス妃の姉ローズ(英語版)の婚家であるグランヴィル伯爵家に雇われる予定だったが、ヨーク公爵家に変更された。クロフィは、エリザベスの結婚まで17年にわたって仕えた。
クロフィの回想録(『The Little Princesses』)によれば、「エリザベス王女は、この頃から馬や犬などの動物好きで、規律正しく責任感の強い性格であった」とある。また後に彼女の治世となって最初の首相となるウィンストン・チャーチルも、当時2歳だったエリザベス王女に接して「子供ながら、驚くほど威厳と沈思のある態度だった」と回想している。
出生時における正式な称号は、Her Royal Highness Princess Elizabeth of York(エリザベス・オブ・ヨーク王女殿下)であり、伯父の王太子エドワード、父のヨーク公アルバートに次いで、第3位の王位継承順位にあった。エリザベスの誕生は世間の関心を集めたが、当時は、まだ壮年かつ独身だった王太子のエドワードへの王位継承が期待されており、国王の次男の長女である彼女の即位を予想する者はいなかった。しかし、放蕩な長男エドワード王子について、ジョージ5世は次第に次男アルバート王子とその娘エリザベスへの継承に期待するようになった。
祖父の崩御、伯父の退位と父の即位
1936年1月20日にサンドリンガム・ハウスにおいて、祖父ジョージ5世が崩御した。エドワード王子がエドワード8世として即位する。
エリザベス王女も、妹マーガレット王女と共に正装安置されたジョージ5世の亡骸を見、その際、棺の傍らにいた父やおじ達の中でも、伯父エドワード8世の姿が印象に残ったことをクロフィに話した。
しかしエドワード8世は、イギリスと対立しつつあった枢軸国、とりわけナチス・ドイツに親近感があるような態度をとり、離婚経験を有するアメリカ人女性のウォリス・シンプソンとの結婚をほのめかした。エドワードとウォリスの関係は広く知られるものではなかったが、即位以来、エドワードはウォリスを伴ってヨーク公の元を訪問するようになった。母エリザベスは、クロフィに王女たちを二人から遠ざけるよう指示した。
12月1日に、紳士協定が切れ、マスコミが一斉に国王とウォリスの関係を報じて世論が騒然となる中、スタンリー・ボールドウィン首相らが彼に退位を迫り、同月11日に退位する(この一件は「王冠を賭けた恋」として知られる)。これにより、エリザベスの父である王位継承順位第1位のヨーク公アルバート王子がジョージ6世としてイギリス新国王に即位した。
クロフィから事情を聞いたエリザベス王女は泣き崩れ、10歳で推定相続人となった。1701年王位継承法により男子優先長子相続制であった。この時点で、もしもエリザベス王女に弟が存在していたならば、その弟が王太子即ち次期国王となるため、彼女は推定相続人として女王に即位することを逃していた。なお、即位時点で父のジョージ6世は40歳、母のエリザベス王妃は36歳であった。
なお、君主の長女に与えられるプリンセス・ロイヤルの称号は、保有者である叔母のヘアウッド伯爵夫人メアリー王女が存命だったため、授けられなかった。
推定相続人としての歩み
父の即位を受けて、イギリス国王の長女(第1子)で王位継承権者第1位となったエリザベス王女は国王・王妃となった両親と妹のマーガレット王女と一家とともにバッキンガム宮殿に移住し、Her Royal Highness The Princess Elizabeth(エリザベス王女殿下)の称号を与えられた上で、王位の推定相続人となる。
ジョージ6世の戴冠式(英語版)は、もともとエドワード8世のために準備されていた日程通りの1937年5月12日に行われ、エリザベス王女とマーガレット王女は16世紀のアン王妃の墓の上に設えられた特別席から、祖母のメアリー王太后や叔母プリンセス・ロイヤルメアリー王女と共に参列した。
1938年にエリザベス王女は初めて舞踏会に出席し、娘の気品を誇りに思うジョージ6世の意向もあって、以降、園遊会をはじめとする公務にも出席するようになった。1939年4月に13歳となり、市井の中学生と同年代になったエリザベス王女は、次期イギリス女王への帝王学教育の一環として、教育者のヘンリー・マーチン(英語版)からイギリス国制史を学び始めた。
1939年7月22日、国王一家がダートマスの海軍兵学校を視察した際、急遽、接待役を務めた士官候補生がのちにエリザベスの結婚相手となるギリシャおよびデンマーク王子のフィリッポス(フィリップ)であった。翌日の国王の昼食会に招待された候補生の一人となり、さらには王室ヨットに手漕ぎボートで追随し、ジョージ6世から呆れられるほど最後まで見送って、エリザベス王女に強い印象を残した。なお、これ以前にも1934年と1937年の二度にわたり面会している。
第二次世界大戦
1939年9月3日にイギリスがフランスと共にドイツに宣戦布告したことで第二次世界大戦(西部戦線)が勃発。1941年12月8日には極東において日本との戦争(太平洋戦争/大東亜戦争)も起き、欧州戦線におけるアメリカ合衆国の参戦も加わり、1945年8月15日の日本の降伏まで戦闘は継続した。
ヨーロッパ大陸に派兵されたイギリス軍は1940年前半、ナチス・ドイツのフランス侵攻と北欧侵攻を受けて敗退。英本土もドイツ空軍の空襲にさらされ、首都ロンドンも標的となり(ザ・ブリッツ)、多くの子供がロンドンから疎開した。国王夫妻の子供であるエリザベスとマーガレット王女姉妹についても、「より安全なカナダへと疎開させること」が政府から提案されたものの、母エリザベス王妃が「私の子供たちは私のもとを離れません。また、私は国王陛下のもとを離れません。そして、国王陛下はロンドンをお離れになりません」と述べて、これを拒否した。
結局、両姉妹は1939年のクリスマスまで、スコットランドのバルモラル城で過ごすことになり、その後はノーフォークのサンドリンガム御用邸に戦時住居として移転した。さらに1940年2月から5月まで、ウィンザーのロイヤル・ロッジ(英語版)に滞在した後、ウィンザー城へ移り住み、以後ドイツ空軍による空襲の脅威が減少するまで5年近くを過ごすこととなった。
ウィンザー城滞在時には、軍用衣類向けのニット生地を生成する毛糸を調達していたクイーン・ウール・ファンド(Queen Wool Fund)を支援するために、クリスマスに家族や友人たちを招待して、王室職員の子女たちとともに、パントマイムを上演したこともあった。この滞在中の1940年10月13日、14歳のエリザベスはBBCのラジオ放送を通じて初めて演説を行い、
「私たちの勇敢な陸海空の軍人の助けとなるために、私たちが出来ることはすべて試みていますし、私たちが共有する戦争の危険や悲しみに耐えようと努力しています。私たち一人一人が、終いには万事上手くいくことを確信しています。」
(We are trying to do all we can to help our gallant sailors, soldiers, and airmen, and we are trying, too, to bear our share of the danger and sadness of war. We know, every one of us, that in the end all will be well.)
と述べた。
これ以後、次期王位継承者として少しずつ公務に携わるようになる。1942年に近衛歩兵第一連隊の名誉連隊長となり、大戦中も国民と共に後方支援にあたった。1943年、16歳の時に、エリザベス王女は初めての単独での公務において、名誉連隊長としてグレナディアガーズを訪問した。以降も各地への訪問および激励を重ねた。
戦中の1943年、フィリッポスと親しく会い又は文通を交わす間柄となった。
18歳の誕生日を迎えると、法律が改正されて、父王が公務を執行できない場合や国内に不在である場合(例えば、1944年7月のイタリア訪問時)に、彼女が5人のカウンセラー・オブ・ステート(英語版)のうちの1人として行動できるようになった。さらに、フィリッポスの従兄にあたるギリシャ国王ゲオルギオス2世がジョージ6世に二人の結婚を促してくるようにもなった。
1945年2月には、イギリス陸軍の英国女子国防軍に入隊し、名誉第二准大尉として、女性軍人として「エリザベス・ウインザー(Elizabeth Windsor)」の名および「230873」の認識番号において、軍用車両の整備や弾薬管理などに従事したほか、大型自動車の運転免許を取得し、軍用トラックの運転なども行った。
それまでの女性王族は、イギリス軍などにおいて「肩書き」が与えられたとしても、名誉職としての地位に過ぎないというケースが慣例だったが、枢軸国によるイギリス本土上陸の危機(アシカ作戦)という非常事態を受けて、次期イギリス女王になることがほぼ確定されていたエリザベス王女はその慣例を打ち破り、他の学生たちと同等の軍事訓練を受け、軍隊に従軍する初めてのケースとなった。
エリザベス王女は、王族である自身が一般の兵士とほぼ全く同等の待遇をされることを非常に喜び、これらの経験をもとに、「自分の子供たち(3男1女)も宮廷で教育させるより、一般国民の子女たちと同等の学校に通わせることを決意した」という。ヨーロッパでの第二次世界大戦終結が確定した1945年5月8日(ヨーロッパ戦勝記念日、V-Day)には、「ロンドンの街中で戦勝を祝福する一般市民の中に、妹と共に匿名で混じって、真夜中まで勝利の喜びを分かち合った」という。
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