TBSで放送されているドキュメンタリー番組「白鵬ドキュメント」不滅の白鵬の無料動画や見逃し配信などの無料視聴方法について紹介したいと思います。
気になる番組は何回も見たいし、TVer(ティーバー)やGYAO!(ギャオ)、加入者の多いHulu(フールー)やNetflix(ネットフリックス)など、どういったサービスで観れるんだろう?って気になりますよね?
この「白鵬ドキュメント」の動画配信なのですが、「白鵬ドキュメント」は現在動画配信されておりません。
TBSで放送されている番組は特定の動画配信サービスで配信はされないですが、今後もし動画配信されるとしたら、それは動画配信サービスU-NEXTでの配信になると思われます。
目次
「白鵬ドキュメント」以外にU-NEXTで見れる動画
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「白鵬ドキュメント」不滅の白鵬
白鵬ドキュメント「不滅の白鵬」
現役を引退し、宮城野親方となった横綱白鵬。20年以上共に歩んだマゲにもついに別れを告げる。涙の里帰りや期待の新星・落合への熱血指導など新米親方奮闘の一年に密着!
TBSが送る白鵬ドキュメントシリーズの第12弾。
1月28日に終わったばかりの断髪式に完全密着。マゲに別れを告げた白鵬最後の一日を、朝の起床から追い続けた舞台裏映像はこの番組でしか見られません。
また感動のスピーチが話題となった三女眞結羽ちゃんとの絆を感じさせるプライベート映像も必見。
そして白鵬と二人三脚で部屋を支えるおかみさんの紗代子さんの奮闘ぶりにも迫る。
期待の新星、落合哲也。そのスカウトの舞台裏にも密着。稽古場での師弟対決の行方は。
さらには4年ぶりとなったモンゴルへの里帰りにも同行。そこで流した涙のワケと最愛の母タミルさんへの思いとは。
「白鵬ドキュメント」の出演者
宮城野親方(第69代横綱白鵬)
白鵬紗代子(宮城野部屋おかみ)
「白鵬ドキュメント」「日下開山、最後の十五日」
天下無双を意味する「日下開山(ひのしたかいざん)」の称号にふさわしく、最強のまま土俵を去った横綱白鵬。進退をかけた最後の名古屋場所十五日の真実に迫る。
TBSが送る白鵬ドキュメントシリーズの第11弾。
天下無双を意味する「日下開山」の称号にふさわしく、最強のまま土俵を去った横綱白鵬。進退をかけた去年の名古屋場所をいかにして駆け抜けたのか。宮城野部屋関係者が撮影していた秘蔵映像に記録されていたのは今まで明らかにされていなかった白鵬の真実の姿。引退を決意した10日目の夜。白鵬が仲間たちに告げたこととは。
運命の名古屋場所、10日目の夜。白鵬は部屋の仲間たち全員を集めた。
「報告があります」
そう切り出した白鵬は、どんな言葉で自らの進退について語ったのか。そして千秋楽の朝に起こった不思議な出来事とは。
「白鵬ドキュメント」の出演者
大相撲 第69代横綱白鵬(間垣親方)
「白鵬ドキュメント」第11弾ついにシリーズの集大成!
「日下開山(ひのしたかいざん)」とは「天下一」や「天下無双」または「最強」を意味し、
相撲の世界では「横綱」を表す言葉でもある。
その「日下開山」の称号にふさわしく、最強のまま現役を退いた横綱白鵬。
しかしその白鵬も15歳で日本にやってきた当時はただのやせっぽちの少年に過ぎなかった。
まだ何者でもなかった白鵬は、新弟子時代に通った相撲教習所のノートに1枚の絵を描いた。
それは自分の未来の姿を思い描いた夢の絵だった。
土俵の砂にまみれながら戦い、大きな夢を叶えた白鵬だが、
天下無双の「日下開山」であり続けるため人知れずもがき苦しんだ。
度重なる大怪我で右膝にメスを入れた白鵬は、ついに進退をかけて最後の土俵へと向かう。
専属トレーナーやマネージャーなど宮城野部屋関係者が撮影していた秘蔵映像には、
現役最後の場所での白鵬の真の姿が記録されていた。
完全復活とも思われた場所で引退を決断した本当の理由。
部屋の仲間たち全員を集めて自らの引き際を伝えた10日目の夜。
腹を括り勝利への執念を貫き通した最後の2番の真実。
そして目に見えない不思議な力の存在。その全てが明らかになる。
日下開山、最後の十五日。
「白鵬翔」の生い立ち
父親のジグジドゥ・ムンフバトはブフ5年連続6度の優勝をした元アヴァルガ(大相撲の横綱に相当)で、モンゴル人民共和国代表としてメキシコ五輪のレスリング重量級銀メダリスト(モンゴル初の五輪メダリスト)となった国民的英雄だった。母親のウルジーウタス・タミルは元外科医でありチンギス・ハーンの流れを汲む家柄の出だという。
モンゴル時代で思い出に残るのは小学生の夏休みであり、毎年1か月を伯父の牧場で過ごした。ゲルと呼ぶ移動式の住居で目を覚まし、井戸で水をくむ。馬に乗って羊の世話をし、夕暮れ時にはオオカミの襲来に目を光らせた。空腹時にはプレーリードッグ(正しくはマーモット。モンゴルでは「タルバガン」と呼ばれている)を狩り、熱した石で、こんがり焼いて食べていたとのこと。リスに似たこの小動物も草原では大切なタンパク源であり、白鵬は「鶏の手羽先に似た味がしてね。大好物だった」と後に振り返っている。祝いの日には羊の丸焼きを頬張り、馬の乳を発酵させた馬乳酒を飲んだ。草原の食で腹を満たし、馬で駆け巡った日々は、しなやかな足腰の原型を作った。「あの経験がなかったら横綱にはなれなかった」と、白鵬は後のインタビューで遠い目をして振り返っていた。
来日前にブフは10 – 12歳の時に遊びでやっていた程度で経験らしい経験はなく、バスケットボールに熱心に取り組んでいた。15歳になったころ、兄のバットホヤグが柔道の教師になったがダワージャルガルは「柔道はイヤだ。どうしても相撲をやりたい」と固辞した。ムンフバトは以前からそのダワージャルガルの意向を知っていたようだが母タミルは普通に勉学を重ねて学者にでもなってほしいと願っていたためダワージャルガルの決意を聞いた際にはショックで言葉も出ず、しばらくは入門するかどうかを巡って滅多にしない夫婦喧嘩もしたとのこと。
それでもタミルは内心「きっと激しい稽古が待っている。経済的にも大きな苦労を知らず、のびのび育ったダワーが、日本での厳しい修業に耐えられるはずがない。きっと、つらくて戻ってくるに違いない」と考え、早々と帰郷すると予想して入門を許した。モンゴルの中等教育学校を卒業。ダワージャルガルは初来日からその後2年半に渡り一度も帰郷せず日本で相撲に打ち込んだ。
「白鵬翔」について
「白鵬翔」は、モンゴル国ウランバートル市出身で宮城野部屋に所属した元大相撲力士、第69代横綱(2007年7月場所 – 2021年9月場所)。2019年9月3日に日本国籍を取得し、引退後は年寄・間垣を経て宮城野を襲名。
本名同じ。帰化前はムンフバッティーン・ダワージャルガル(モンゴル語キリル文字表記:Мөнхбатын Даваажаргал、ラテン文字転写:Mönkhbatyn Davaajargal;日本相撲協会による公式表記は「ムンフバト・ダヴァジャルガル」)、モンゴル語での愛称は「ダワー」。
身長192 cm、体重155 kg、血液型はA型。得意手は右四つ、寄り、上手投げ。好物は焼肉と納豆およびプレーリードッグ(本人談)。嫌いなものはあんこ、趣味は読書、チェス、テレビゲーム、ゴルフ。アジア初のユネスコ・スポーツ・チャンピオン。
生い立ち
父親のジグジドゥ・ムンフバトはブフ5年連続6度の優勝をした元アヴァルガ(大相撲の横綱に相当)で、モンゴル人民共和国代表としてメキシコ五輪のレスリング重量級銀メダリスト(モンゴル初の五輪メダリスト)となった国民的英雄だった。母親のウルジーウタス・タミルは元外科医でありチンギス・ハーンの流れを汲む家柄の出だという。
モンゴル時代で思い出に残るのは小学生の夏休みであり、毎年1か月を伯父の牧場で過ごした。ゲルと呼ぶ移動式の住居で目を覚まし、井戸で水をくむ。馬に乗って羊の世話をし、夕暮れ時にはオオカミの襲来に目を光らせた。空腹時にはプレーリードッグ(正しくはマーモット。モンゴルでは「タルバガン」と呼ばれている)を狩り、熱した石で、こんがり焼いて食べていたとのこと。リスに似たこの小動物も草原では大切なタンパク源であり、白鵬は「鶏の手羽先に似た味がしてね。大好物だった」と後に振り返っている。祝いの日には羊の丸焼きを頬張り、馬の乳を発酵させた馬乳酒を飲んだ。草原の食で腹を満たし、馬で駆け巡った日々は、しなやかな足腰の原型を作った。「あの経験がなかったら横綱にはなれなかった」と、白鵬は後のインタビューで遠い目をして振り返っていた。
来日前にブフは10 – 12歳の時に遊びでやっていた程度で経験らしい経験はなく、バスケットボールに熱心に取り組んでいた。15歳になったころ、兄のバットホヤグが柔道の教師になったがダワージャルガルは「柔道はイヤだ。どうしても相撲をやりたい」と固辞した。ムンフバトは以前からそのダワージャルガルの意向を知っていたようだが母タミルは普通に勉学を重ねて学者にでもなってほしいと願っていたためダワージャルガルの決意を聞いた際にはショックで言葉も出ず、しばらくは入門するかどうかを巡って滅多にしない夫婦喧嘩もしたとのこと。
それでもタミルは内心「きっと激しい稽古が待っている。経済的にも大きな苦労を知らず、のびのび育ったダワーが、日本での厳しい修業に耐えられるはずがない。きっと、つらくて戻ってくるに違いない」と考え、早々と帰郷すると予想して入門を許した。モンゴルの中等教育学校を卒業。ダワージャルガルは初来日からその後2年半に渡り一度も帰郷せず日本で相撲に打ち込んだ。
入門
大相撲で活躍していた同じモンゴル出身の旭鷲山をつてに、2000年10月25日に6人のモンゴル人と共に来日。大阪府内の摂津倉庫で相撲を習っていた(同社の相撲部には以前、後に幕内に上がる大飛翔も在籍)。共に来日した猛虎浪(立浪部屋)、千昇(式秀部屋)、大河(式秀部屋)らの入門が決まるなか、小柄だった白鵬を受け入れてくれる部屋は最後まで見つからなかった。
その失意の帰国前日12月24日、彼を哀れんだ旭鷲山が自らの師匠の2代大島(元大関・旭國)と会食中に相談し、大島は友人だった10代宮城野(元幕内・竹葉山)に受け入れを申し入れた。当時の宮城野部屋は弱小部屋だった為に厳しいしきたりも少なく、育ちの良い白鵬には伸び伸びとやれる環境で結果的に良かったのだとされる。こうした経緯から2004年8月に宮城野部屋師匠が11代宮城野(元十両・金親)に代替わりしたのちも、15代熊ヶ谷に名跡変更して宮城野部屋付きとなった先代宮城野の指導を内弟子として受けた(2010年12月に15代熊ヶ谷は12代宮城野を襲名し、部屋の師匠に復帰している)。
こうして角界入りとなるものの、部屋の先輩力士に「若くてすらっとしている子」という条件で連れてこさせた少年を見た10代宮城野は、父親の実績を知る由もなく、その小柄な体から大きな期待はしていなかったといい、自らも小さな体で苦労して幕内まで昇進したので「若いから、何とかなるだろう」程度に考えていた。しかし一方で、大きな手足と腰、柔らかい筋肉などから、もしかしたら化けるかもしれないと思い、入門してからの2か月間は稽古をさせず、毎日吐く程に食べさせ、牛乳を飲ませた。
宮城野部屋入門時から大関になるまで、宮城野横須賀後援会が横須賀市内で主催するサマーキャンプに毎年参加し、午前中は横須賀市大津の土俵で稽古を積み、午後は市内の福祉施設の訪問や商店街の夏祭り等で子ども達に胸を貸し、相撲体験を通して夢や感動を与えてきた。サマーキャンプは、大関となる2006年まで継続された。
四股名は、横綱・大鵬と柏戸に因んで柏鵬(はくほう)とする案があったが、色白だったことから白鵬と付けられた(元幕内・千代白鵬と四股名が比較されるが、命名は千代白鵬が先)。四股名の命名は部屋の元幕下・岩海でマネージャーの岩埼という人物によるものであった。2001年3月場所に初土俵を踏むが、番付に名前が載った翌5月場所は身体の小ささもあり3勝4敗の成績で、後の横綱としては異例の序ノ口での負け越しを経験する。
しかし、入門当時身長175cm、体重68kgだった体は、食文化の違いを苦にせず大食漢だったことと熱心な稽古によって大きく成長し続けた。急激な肉体の成長と才能の開花に歩を合わせるかのように番付を駆け上がり、部屋で稽古を付けていた光法は、「あの白鵬って子、一晩眠るたびに強くなっている。2 – 3年後には化粧まわしや白い稽古まわし(共に関取の象徴)を身につける身分になりますよ!」と驚いていた。
実際、皆勤して負け越したのは前述の2001年5月場所と三段目時代の2002年7月場所(3勝4敗)の2場所だけで、これ以降は休場を除いて負け越していない。相撲教習所時代は1度だけ寝坊して教習所に遅刻しそうになったが、遅刻しないように下駄を持って裸足で走って間に合わせた。
下積み時代のぶつかり稽古は40分にも及んだ日があり、毎日悔し涙を流していたが、父の顔を潰さないために大相撲を辞めてモンゴルに帰るとは言い出さなかった。
なお、幕下時代に朝帰りをし、土下座し謝り許しを得ようとするも、師匠は激怒し破門を切り出したことがあった。この時に部屋付きの親方衆や兄弟子たちが師匠を諫めていなかったら、白鵬は引退に追い込まれ、後の横綱・白鵬は出現しなかったとも言われている。
また、入門からしばらくが経過した頃、父のムンフバトは部屋を辞めさせて鳥取城北高校へ預けたいと石浦外喜義に相談している。これに対して石浦は「大相撲は一度辞めたら二度と復帰できない」と断ったが、これによって白鵬は鳥取城北高校との縁ができた。
十両
2003年11月場所では、東幕下9枚目で6勝1敗の好成績を上げ、関取の定員増もあり翌2004年1月場所に新十両に昇進し、翌場所、十両2場所目で12勝3敗の成績を挙げ追風海との優勝決定戦を制し優勝。十両はわずか2場所で通過し、入門からわずか3年での入幕となった。
新入幕
2004年5月場所で新入幕となる。19歳1か月での新入幕は貴花田(後の横綱・貴乃花)、北の湖、花田(後の大関・貴ノ花)に次ぐ当時史上4位の若さであった(外国人力士としては史上1位の若さ)。その場所、千秋楽まで単独で優勝争いの先頭に立っていた北勝力を立合いの変化で破り、星1つの差で追っていた同じモンゴル出身の横綱・朝青龍の「援護射撃」を果たし、自らも12勝3敗の好成績で貴花田の18歳7か月に次ぐ19歳2か月の若さで初三賞(敢闘賞)を受賞した。新入幕での12勝は、15日制になってから当時歴代3位タイ(現在は歴代4位タイ)。入幕を果たした際には「親方、一番強い人を倒したときの懸賞を持ってきます。待っていてください」と15代熊ヶ谷と約束した。
同年11月場所11日目、白鵬は朝青龍を送り出しで破って初金星を獲得。その夜、この一番に掛かった懸賞を持って15代熊ヶ谷の前にやってくると、「ここまで来られたのも親方のおかげです。受け取ってください」と差し出した。この懸賞は15代熊ヶ谷の自宅の居間の一番見えるところに飾ってあるという。この場所は綱取りがかかっていた魁皇にも勝ち終盤まで優勝を争い、12勝3敗の好成績で初の殊勲賞を受賞した。
幕内
入幕1年目にして横綱最有力候補と目され、2005年1月場所は新三役(西小結)で魁皇、千代大海の2大関を破って11勝4敗の好成績を挙げ、初の技能賞を受賞した。3月場所は関脇に昇進し、直近の2場所で12勝3敗・11勝4敗の好成績を上げていた事から大関獲りの場所と目された。達成すれば貴乃花を上回る史上最年少での昇進となったものの序盤からまさかの3連敗で、終盤4連勝して8勝7敗と勝ち越しはしたものの、大関昇進を逃がした。
同年7月場所では7日目まで6勝1敗と優勝争いをしていたが、中日の普天王戦で左足関節靭帯損傷及び内反捻挫の怪我を負い、初土俵以来初めて休場し翌9月場所では、平幕落ちした。翌11月場所は、2場所ぶりに小結に復帰し栃東、魁皇の2大関を破り9勝6敗と勝ち越した。
大関取り
関脇に復帰した2006年1月場所では、初日から6連勝し、その後2連敗したが12日目に朝青龍を小手投げで破る。千秋楽では大関昇進で先を越された琴欧州に寄り倒しで圧勝し、栃東との優勝決定戦を待ったが、栃東が朝青龍に勝ち優勝決定戦にはならなかった。それでも13勝2敗の好成績を挙げ、2回目の殊勲賞を受賞した。この時初めて千秋楽まで優勝争いに絡んだ。
翌3月場所は、自身2度目の大関獲りの場所であった。この場所は初日から11連勝し11日目に全勝の横綱朝青龍との相星決戦で、左四つに組み合った後、左手で朝青龍の左ももを払いながらの上手出し投げで完勝し、大関昇進の目安といわれる33勝目をあげた。千秋楽では魁皇に敗れたが、優勝を争っていた朝青龍も栃東に敗れたため13勝2敗同士の優勝決定戦で再び朝青龍と対戦。左四つからの巻き替えあって右四つがっぷりの体勢になり、白鵬が両まわしを引き付けて寄ってくる瞬間朝青龍は右四つからの下手投げで白鵬を下した。朝青龍に敗れて優勝は逃したが、技能賞と殊勲賞を獲得するなど高く評価された。この一番はモンゴル国内において、瞬間視聴率は93パーセントを記録したとされる。
場所終了後の3月29日、日本相撲協会は大阪市内で番付編成会議を開き、白鵬の大関昇進を満場一致で決め、理事会で承認された。正使として友綱理事(元関脇・魁輝)、副使に春日山審判委員(元幕内・春日富士)が、大阪府堺市の西本願寺堺別院に派遣された。師匠の11代宮城野(元十両・金親)夫妻とともに紋付き袴姿で出迎え、「謹んでお受け致します。大関の地位を汚さぬように、全身全霊をかけて努力します。本日は誠にありがとうございます。」と昇進口上を述べた。
自身の方が入幕は先だったのに大関昇進で先を越された琴欧州に対し、怪我(2005年7月場所の)さえなければ自分が先に大関だったという悔しい思いを晴らし、わずか2場所で追いついた。
大関
新大関で2006年5月場所は初日から4連勝し、5日目に雅山に突き落としで敗れたがその後は白星を重ねて14勝1敗の好成績を挙げた。本割で唯一負けた雅山との優勝決定戦で、取組前にかいた汗により雅山の突きが滑るという幸運にも恵まれて勝ち、新大関の勝ち星記録更新という快挙も成し遂げて初優勝を果たした。21歳4か月での初優勝は貴乃花、大鵬、北の湖に次ぐ歴代4位の若さだった。12日目の帰りの車の中で「君が代」を教わり練習し、初優勝を果たした千秋楽では君が代を歌った。優勝パレードの旗手は、兄弟子の光法が務めた。
綱取り
初の横綱獲りへ挑戦となった2006年7月場所初日に朝赤龍、9日目に雅山に敗れたが、その後順調に勝ち星を積み重ね、千秋楽ではここまで全勝の朝青龍に寄り倒しで土をつけ、4場所連続となる13勝以上の13勝2敗で場所を終えた。
横綱昇進が有力視されたが、日本相撲協会の放駒審判部長(元大関・魁傑)は、朝青龍の独走を許したという理由で、理事会の招集も横綱審議委員会への諮問も行わず、横綱推挙は見送られた。千秋楽後の朝青龍の優勝インタビューの際、NHKのアナウンサーが白鵬の横綱推挙が見送られたことを朝青龍に伝えると、会場は大きなため息に包まれた。番付上、東横綱・朝青龍と東大関・白鵬との対戦が組まれるのは千秋楽であるため、そこまで優勝争いがもつれなかったという意味で「独走を許した」という表現となった(14日目の時点では横綱が14勝0敗で優勝決定、白鵬が12勝2敗)。横綱昇進を見送られた白鵬は、モンゴルの温泉で疲れを取るため帰国した。
翌9月場所で2度目の綱獲りを目指したものの、初日に稀勢の里に敗れ、その際右膝を負傷した。12日目でようやく勝ち越すが、その後千秋楽まで3連敗して8勝7敗に終わり、横綱への挑戦は白紙に戻った。
翌11月場所は、場所直前の11月1日稽古場のある公園内の階段でトレーニング中つまずき、左足親指を怪我、翌日、左母趾基節骨遠位端骨折と診断され福岡市内の病院で手術(ボルトを入れ4針縫う)し入院。9日に抜糸し退院したが、同日11代宮城野が会見を開き、怪我の回復を優先させる事から休場を発表、初の全休となった。次の2007年1月場所は、自身唯一の大関角番であったが、12日目で勝ち越して角番を脱出、10勝5敗と二桁勝利を挙げた。
3月場所前の2007年2月に当時学習院大学に在籍中の学生であった徳島県徳島市出身の和田紗代子と結婚。このとき妻は第1子を身ごもっており、同年5月10日に第1子(長女)が誕生した。義父は実業家で、元朝青龍全国後援会長の和田友良。
3月場所は千秋楽の優勝決定戦で、立合いの変化で朝青龍を下し、13勝2敗で2度目の幕内最高優勝を果たしたが、日本相撲協会や横綱審議委員会ではその相撲内容が十分でないとの意見もあった。それでも3度目の綱獲りだった翌5月場所では、初日から14連勝で14日目で優勝を決め、千秋楽も堂々たる相撲振りで朝青龍に完勝し、自身初の15戦全勝優勝を達成。日本相撲協会からの諮問後の横綱審議委員会でも「満場一致」の横綱推薦となり、念願だった第69代横綱への昇進が決定した。なお横綱土俵入りは熊ヶ谷親方の推薦もあり、熊ヶ谷の入門時の師匠である元横綱・吉葉山と同じ不知火型を選択(白鵬自ら5月場所の全勝優勝インタビューで「部屋の大先輩である横綱吉葉山と同じ不知火型をやります」と宣言していた)。不知火型を選んだ横綱はその多くが短命に終わってきたが、後述の通り白鵬はそのジンクスを払拭する活躍を見せることになる。土俵入りの指導は同立浪一門の4代安治川(当時、元横綱・旭富士)が行った。土俵入りはせり上がりの際、四股を踏む前と最後の締めの部分の腕の所作に大きな特徴があり、前者は翼をピンと張るように切れのいい動作を、後者は翼を広げるようなゆったりとした構えを見せる。
横綱
2007年
7月場所は横綱として初の土俵。16連勝の中で初日を迎え、白星を重ねていったが、10日目に琴光喜に敗れて連勝は25でストップした。
12日目の魁皇戦では、土俵際で魁皇が突き落としたが行司・木村庄之助の軍配は白鵬に上がった。これに物言いが付き協議の結果取り直しとなった。 この日の大相撲中継の解説であった北の富士勝昭、実況アナウンサーの刈屋富士雄は、魁皇の勝ちであるように見えたと発言している。この相撲で魁皇は負傷し、取り直しの一番は一方的に白鵬の勝利。翌日から魁皇は休場した。翌13日目の琴欧洲、14日目の千代大海との取り組みに敗れ、横綱として初の連敗を喫し、この時点で3敗に後退して3連覇の可能性が断たれた。
千秋楽は2002年9月場所の武蔵丸 – 貴乃花以来、実に4年10か月振りとなる横綱同士の対戦で朝青龍に寄り切りで敗れ、3連敗を喫し11勝4敗に終わった。
翌9月場所は朝青龍が自身の不祥事の為に出場停止処分となり、実質1人横綱となった。初日に安馬(当時、後の日馬富士)に敗れ、中日までは安美錦を追う形となった。さらに11日目には豊ノ島に敗れ(自身初の金星配給)、新入幕の豪栄道に優勝争いのトップを明け渡してしまったものの、13勝2敗で横綱昇進後初となる通算4度目の優勝を果たした。
9月場所直前、白鵬は出場停止となった朝青龍を気遣い、同情的なコメントを寄せている。8月23日には朝青龍の外出について感想を求められて「いいんじゃないですか?」と答え、朝青龍帰国に際しては「けがを治すなら、落ち着いてやるのがいい。体よりも心の痛みが強いと思う」と語った。
11月場所では朝青龍の休場(出場停止)もあり、自身初の東横綱の座に就いたがこの場所も初日に琴奨菊に寄り切られて黒星スタートとなった。14日目に11勝2敗の相星対決で負かした大関千代大海が右肘負傷により千秋楽を休場するアクシデントが発生した為、取組を待たずに5回目の優勝が決まった。その千秋楽結びの一番の琴光喜戦では下手投げで裏返しにされて敗北し、祝勝気分に自ら水を差した格好になった。なお、日本相撲協会によれば千秋楽に優勝を争う一方の力士が休場することによって幕内最高優勝が決まったのは、1927年(昭和2年)10月の不戦勝制度適用以来初めてのことだった。また同2007年、自身初となる年間最多勝(74勝16敗)を受賞した。
2008年
2008年1月場所、この場所から茶色の締め込みに変更する。初日から好調で優勝争いのトップを走った。そして西横綱朝青龍も白鵬に並走し、2002年9月場所の武蔵丸 – 貴乃花以来となる東西横綱同士で13勝1敗同士の相星決戦となった。注目の一番は白鵬が朝青龍を得意技の左上手投げで下し、14勝1敗で3場所連続6度目の優勝を決めた。
3月場所では4日目の平幕安美錦戦で早くも土がつき、12日目も千代大海に敗北、それまで全勝の朝青龍に引き離されていた。しかし朝青龍が12日目と13日目で土がつき、14日目の時点で両横綱共に12勝2敗で並んだため、1995年3月 – 5月場所の貴乃花 – 曙戦以来、約13年ぶりの2場所連続の千秋楽横綱相星決戦となった。結果は朝青龍に右小手投げで敗れ、4連覇を逃した。
5月場所は9日目まで全勝だったが10日目の安馬(後、日馬富士)戦で敗れた際に左足首を捻挫、その影響で優勝争いから脱落する。千秋楽結びの一番で、朝青龍に引き落とされて両手をついて敗れた後、横から駄目押しされたためか、白鵬が立ち上がり、朝青龍に右肩をぶつけ両者が睨み合うという事件を起こした。その翌日の5月26日、北の湖理事長は「悪いのは逆上した白鵬だ」との理由で、師匠の宮城野親方だけを国技館に呼び厳重注意したが、横綱審議委員らは「その直後に横綱同士が土俵の中で睨み合うのは喧嘩両成敗。朝青龍にも問題が有る」と提言。翌5月27日には当事者の白鵬と朝青龍に対し、それぞれ口頭で厳重注意の処分となった。その後白鵬は「横綱として非常に申し訳無かった。深く反省しています」と記者陣に対し謝罪していた(但し朝青龍からのコメントは一切無し)。
7月場所は6日目から朝青龍の途中休場により1人横綱となったが、13日目に魁皇を下し7回目の優勝、千秋楽には琴欧洲を上手投げで破り横綱昇進後初となる通算2度目の全勝優勝を果たした。これで各場所すべて優勝(全6場所制覇)を成し遂げたことになる(歴代10人目、不知火型の横綱では初)。ちなみに歴代の不知火型の横綱で年6場所制になってからは、玉の海の優勝6回を上回り最多となり、昭和以降では年6場所制以前の羽黒山と並んだ。優勝制度が始まって以降の当時の最多記録は太刀山の9回だった。
9月場所前の9月2日、アジアで初めて「ユネスコ・スポーツ・チャンピオン」の称号が授与された。翌9月3日、第2子(長男)が誕生。
9月場所は3日目の東前頭筆頭の琴奨菊との取り組みで左上手投げで勝ったが、立合い直後の「琴奨菊の手つき不十分」として放駒審判長(元大関・魁傑)から「待った」がかかっていた(これは行司も気づかなかった)。やり直しの一番も寄り倒しで制し、“1日2勝”することとなる。5日目に稀勢の里に横綱になって初めて敗れ、19で連勝はストップし金星を与える。14日目に、自分の取組前に安馬と琴光喜が敗れ、結びの一番で琴欧洲と対戦、上手投げで相手を屠って8回目の優勝を決めた。また同時に、年間勝利数が2位の安馬と16勝差となり、11月場所を残して2年連続2回目の年間最多勝(2008年は79勝)を決めた。千秋楽も琴光喜を破り、14勝1敗で9月場所を終えた。
11月場所は初日に安美錦に敗れるスタート。この場所の序盤は相撲内容が良くなく、苦しみながら勝つという状況が続いて、12日目に大関昇進を目指す安馬に敗れた。優勝争いは千秋楽の本割終了時点に於いて13勝2敗で安馬と並び、優勝決定戦となった。決定戦では両者白熱した攻防の末、白鵬が上手投げで安馬を下し、3場所連続9回目の優勝を果たした。この優勝で、歴代の不知火型の横綱では史上最多タイの優勝回数となった。
2009年
1月場所は初日から9連勝で4場所ぶりの土俵となった朝青龍と並んでいたが、10日目に日馬富士(当時新大関、安馬から改名)に敗れて朝青龍にリードを許した。その後も全勝の朝青龍との星1つの差は変わらず、優勝争いはこの2者に絞られていった。千秋楽の本割では朝青龍を寄り倒して、14勝1敗同士の優勝決定戦に持ち込んだが、優勝決定戦で朝青龍に寄り切りで敗れて4連覇を逃した。
3月場所も朝青龍と熾烈な優勝争いを演じていた。10日目に朝青龍が日馬富士に敗れた後も単独トップを維持し、14日目に10回目の優勝を決めた。これにより、不知火型の横綱の最多優勝記録を更新した。翌日の千秋楽も朝青龍を寄り切って自身3度目の全勝優勝で締めくくった。
5月場所は12日目まで日馬富士と全勝で優勝争いのトップを走っていた。13日目の全勝対決において裾払いで日馬富士を破り、33連勝になった。この日の勝利で従来羽黒山が持っていた取り直し制度導入後の不知火型の連勝記録(32連勝)を更新した。だが、14日目の琴欧洲戦で、琴欧洲の上手投げを食らい、連勝記録は33で止まった。千秋楽は朝青龍を寄り切って日馬富士と同成績の14勝1敗で優勝決定戦に臨んだが敗れて優勝を逃した。しかし、千秋楽の白星で前年7月場所からの6場所間での勝ち星が85となり、年度にこだわらない任意の場所の連続6場所としては北の湖(1977年9月から1978年7月にかけて)に並ぶタイ記録を樹立した。
7月場所は、11日目に琴光喜に敗れ1敗を喫するも、13日目に同じく11勝1敗で並ぶ琴欧洲との直接対決を上手投げで制し単独トップに立つと、そのまま千秋楽まで1敗を守り14勝1敗で11回目の優勝を決めた。
9月場所は6日目に平幕の翔天狼に初顔で金星を許して1敗、その後14日目まで全勝の朝青龍を1差で追っていた。千秋楽結びの一番では朝青龍を寄り切って勝利。14勝1敗同士の優勝決定戦へもつれ込んだものの、決定戦では朝青龍に右掬い投げで敗れて、同年1月場所同様に逆転優勝はならなかった。この結果、2009年は東京場所での優勝を果たせなかった。また、年間3場所(1月・5月・9月)の決定戦での敗戦は史上初となった。さらにこの3場所とも14勝1敗で優勝を逃しており、14勝1敗の成績で優勝できなかった横綱の場所数としては歴代最多となった。
しかし、先場所の時点で玉の海(1970年9月 – 1971年3月)や千代の富士(1988年5月 – 11月)と並んでいた「4場所連続14勝以上」の記録を、千秋楽の勝利で「5場所連続14勝以上」に延ばし、単独トップとなった。11月場所は14日目に琴光喜を上手投げで下し、12回目の優勝を決めるとともに年間勝ち星の新記録を達成した(この場所で同時に史上初の『6場所連続14勝以上』と『9場所連続13勝以上』を記録)。更に翌日の千秋楽で朝青龍を左上手投げで下し、2005年に朝青龍が記録した年間最多勝記録84を2勝更新する86勝4敗の新記録を打ち立て、4度目の全勝優勝、九州場所3連覇で2009年を締めくくった。同時に白鵬自身と北の湖がもつ、年度にこだわらない任意の場所の連続6場所での勝ち星85をも更新した。
2010年 -63連勝-
1月場所初日は、横綱土俵入りの所作に於いて、四股を自分の足元を見て踏む形に変更したことに気を取られたため、せり上がりを忘れるハプニングがあった。この日は2007年以来の天覧相撲となったが、土俵入りは天皇・皇后の到着前だったため、大きな問題とはならなかった。
7日目に把瑠都に敗れて連勝が30で止まり、12日目に日馬富士に敗れて2008年11月場所以来となる2敗目を喫した。翌13日目も2006年5月場所以降、本割で17連勝中だった魁皇に敗れ、久々の連敗で3敗となった。14日目は結び前の一番で琴欧洲に勝ったものの、朝青龍がその後結びの一番で日馬富士に勝利し、朝青龍に25回目の優勝を決められた。翌千秋楽の結びの一番、白鵬は朝青龍を寄り倒し朝青龍戦7連勝としたが、この一番が横綱朝青龍と本場所での最後の対戦となった。
1月場所後の2月4日に朝青龍が急遽現役引退を表明したため、3月場所からの番付は史上9人目の一人横綱となった。不知火型の横綱が番付上でも一人横綱となるのは、現在の型の元祖とされる太刀山以来、史上初のことである。その2010年3月場所は、大関昇進を目指した関脇・把瑠都との優勝争いとなったが、11日目に把瑠都との全勝対決を制し、その後も連勝を続けて15戦全勝で13回目の優勝を飾った。これによって12回優勝の双葉山と武蔵丸を抜いて、優勝回数が歴代単独6位となった。ちなみに東横綱での全勝優勝は自身初。また地方場所での2年連続全勝優勝は史上初で、場所を問わない4年連続での全勝優勝達成は、双葉山、大鵬、北の湖に並ぶ記録である。
5月場所も、把瑠都ら上位陣が星を落としていく中で連勝を続けた。そして独走の中で迎えた13日目に琴光喜を破り、輪島に並ぶ14回目の優勝を決めた。14日目からは、輪島のトレードマークだった黄金色の締め込みで出場。14日目は琴欧洲、千秋楽は日馬富士を退け、2場所連続6度目の全勝優勝を果たした。直近4場所で3度の全勝優勝は、15日制の下では初の快挙である。横綱昇進後の夏場所の優勝も初めてである(横綱の5月場所優勝自体2005年の朝青龍以来5年ぶり)。なお、横綱昇進後丸3年となるこの場所を終えた段階での横綱勝率は.900という近代の大相撲では驚異的な数字にまで達した。この14回目の優勝インタビューにおいて次の目標を聞かれ、「次は平成の大横綱、貴乃花関の記録に並びたい。その先は大鵬関の記録も追い抜きたい」と答えた。優勝回数に関しては大鵬という大きな目標を出したが連勝記録については一切触れなかった事に関して、解説の北の富士は「連勝記録について何も言わなかったのは、彼自身、優勝は重ねていけても連勝を伸ばしていくのは難しいと実感しているからじゃないですかね。」と言っていた。
2010年5月に起きた大相撲野球賭博問題に関連し、花札で金を賭けていたことを上申書で申告したが、賭け金が軽微とみなされ、処分は厳重注意にとどまった。その直後の7月場所では、14日目に日馬富士を掬い投げで下し、輪島を抜く15回目の優勝を果たした。また、46連勝を達成し、大鵬の45連勝を抜いて昭和以降では歴代3位の記録となった。千秋楽も把瑠都を上手投げで下して全勝優勝を果たし、連勝記録を47に伸ばした。1場所が15日制で定着した1949年5月場所以降初となる「3場所連続15戦全勝優勝」という快挙も成し遂げた。年間3回の全勝優勝も初である。
9月場所は3日目で50連勝を達成。富岡八幡宮にある超五十連勝力士碑に名を刻むこととなった。7日目には稀勢の里を押し出して54連勝とし、千代の富士の53連勝を抜いて昭和以降では単独2位となった。14日目、自らの取組前に追う2敗力士が敗れたため、16回目の優勝が決定。更に千秋楽、日馬富士を下し、4場所連続8回目の全勝優勝で双葉山、大鵬に並び、連勝記録も62とした。また自身がもつ、年度にこだわらない任意の場所の連続6場所での勝ち星記録86を更に塗り替え、87とした。
11月場所は初日に栃ノ心を上手投げで下し、江戸時代の大横綱・谷風に並ぶ63連勝を達成したが、2日目に稀勢の里に右上手を許してしまい寄り切りで敗れ、連勝記録として歴代2位、昭和以降、横綱として歴代1位の記録となる63で止まった。このあと呆然とした表情で、報道陣に「これが負けか」とつぶやいている。しかしその後は白星を重ねて14勝1敗で平幕の豊ノ島との優勝決定戦を制し、5場所連続17回目の優勝を達成した。また千秋楽の白星で「2年連続年間最多86勝」を樹立した。後にこの連勝を止められた一番に関しては2019年の記事で「九州場所をもし全休して調整に専念していたら(休場を挟んだ記録という形でなら)連勝記録がもっと継続していたかもしれない」と冗談交じりに話している。
2011年
1月4日に「白鵬横須賀後援会」が「宮城野部屋横須賀後援会」に名称変更し、新たに発足することが明らかになった。後援会関係者が「年末に師匠が交代し、今後は白鵬だけでなく部屋の後援会として発足させたい」。9代宮城野(元小結・廣川)が横須賀出身だったことから部屋後援会として活動していたが、11代宮城野(元十両・金親)が2004年に師匠になってからは白鵬の個人後援会になっていた。
1月場所は先場所からの連勝を再び延ばし、7日目に栃煌山を下して自身5度目の20連勝を達成するも、11日目にまたしても稀勢の里に敗れ、連勝は23でストップ。 11月場所に続く稀勢の里戦の黒星で、横綱になってから同じ力士に連敗したのは、朝青龍、日馬富士に続き、3度目。しかし14日目には把瑠都を掬い投げで下して自身18回目の優勝を決める。優勝を決めた翌日(千秋楽)には第3子となる女児が誕生し、相撲も魁皇を送り出しで破り14勝1敗で終え、自身2度目の6場所連続14勝以上を達成。年度にこだわらない任意の場所の連続6場所での勝ち星記録87を88に更新している。
2月に発覚した大相撲八百長問題では関与は見られず、白鵬自身も記者会見で「ないとしか言えない」と否定しているが、この問題の影響で出演していたCM(住友林業など)が放映自粛に追い込まれている。なお春場所で7連覇がかかっていたが、この八百長問題で春場所自体が中止となった。
5月技量審査場所は再び7連覇がかかった場所となった。2場所連続で敗れていた稀勢の里に勝つなど12日目まで全勝を続けていたが、13日目に日馬富士に敗れた。 千秋楽は魁皇に敗れて、2008年5月以来の千秋楽結びでの黒星となり2敗となったが、追っていた栃ノ心も千秋楽の本人の取組前に敗れたため、7場所連続(朝青龍と並んでタイ記録)19回目の優勝を果たした。
7月場所は新記録の8連覇がかかっていたが、11日目に大関昇進を懸ける琴奨菊に初黒星を喫し、14日目には全勝だった日馬富士との直接対決に敗れ、一人横綱となって以来初めて優勝を逃した。千秋楽も把瑠都に敗れ、2010年1月以来8場所ぶりの12勝3敗に終わった。
9月場所は琴奨菊と稀勢の里の両関脇と優勝を争う展開となり、11日目まで全勝も終盤に両関脇を相手に連敗(横綱昇進後初めて関脇以下の力士に連敗)。千秋楽では稀勢の里が3敗を守り2敗だった琴奨菊が敗れたため、3人での優勝決定巴戦の可能性もあったが、日馬富士を破って13勝2敗での優勝を決め、20回目の幕内優勝を達成した。
11月場所は初日から連勝を続け、優勝を争っていた新大関の琴奨菊や大関昇進のかかる稀勢の里らを退け、13日目に琴欧洲を豪快な下手投げで破り優勝を決めた(13日目での優勝決定は自身3度目)。その後千秋楽で把瑠都に敗れ、全勝優勝とはならなかった。また、この場所の7日目で5年連続5回目の年間最多勝を確定させたが、5年連続の年間最多勝は史上4人目のタイ記録である。
2012年
3連覇を懸ける1月場所は2日目、3日目と続けて6人の上位陣全員が勝利するなど、好調な大関陣との優勝争いとなった。白鵬自身は5日目の雅山戦で以前も負傷した経験のある左足親指を痛めるというアクシデントもありながら9日目まで連勝して星を重ねたものの、10日目にこれまで20戦全勝と圧倒していた鶴竜に初めて黒星を喫し1敗に後退。全勝の把瑠都を追いかける形となったが、12日目に日馬富士の注文相撲に屈し2敗となり、あっけなく自力優勝が消滅してしまった。13日目には琴欧洲に約3年ぶりの黒星を喫し連敗。これで把瑠都との星の差が3つとなり、大関に13日目に初優勝を決められるという屈辱的な展開となった。千秋楽は前場所に自らの全勝優勝を阻まれた把瑠都に雪辱を果たし把瑠都の全勝優勝を阻止、12勝3敗で場所を終えた。
3月場所は順調な滑り出しで始まり、8日目には玉の海の「6場所連続」を超える史上最多記録の「7場所連続中日勝ち越し」を決めた。しかし、9日目の鶴竜戦では2場所連続で敗れ、その後も13日目に稀勢の里にも敗れたが、千秋楽まで1敗の鶴竜と優勝を争っていた。千秋楽ではこの日敗れて2敗になった鶴竜との決定戦を制し、逆転で貴乃花に並ぶ22回目の優勝を果たした。
しかし5月場所は、初日に小結・安美錦に敗れる波乱の幕開けとなる(この一番で左手人差し指を剥離骨折した事を12代宮城野が後日表明)。その後5連勝したものの、廻しが引き切れない不完全な状態のまま攻めていく相撲が目立ち、7日目に平幕の豊響に土俵際の小手投げを食らって金星を許す。8日目関脇豪栄道に攻めきれないまま体を入れ替えられて寄り切られ2連敗、9日目も関脇・豊ノ島に土俵際の豪快な首投げで裏返され物言いの末敗北、新横綱だった2007年7月場所以来の3連敗を喫して5勝4敗になった。これにより、2008年7月 – 2012年3月場所まで続いた幕内連続12勝以上勝利が22場所(史上1位)でストップした。途中休場も危惧された中、10日目に新大関・鶴竜を破り4日ぶりに勝利を収め、12日目に8勝4敗とようやく勝ち越し。14日目で10勝4敗と二桁勝利を挙げ、一時は千秋楽で11勝4敗同士の優勝決定戦進出の可能性もあったが、3敗の栃煌山の不戦勝が確定したために優勝は消滅。結局は勝ち越しを賭けた日馬富士に敗れ10勝5敗、横綱昇進後ではワーストの成績に終わった。
7月場所で横綱在位数が30場所を迎え、羽黒山と並び歴代10位タイの記録となる。この場所は初日から14日目まで大関日馬富士と共に14連勝で進んだが、千秋楽結びの一番では日馬富士の寄り切りに完敗して全勝優勝を逃し、一人横綱となってから初めて2場所連続で優勝を逃してしまった。なお、この一番は、1983年9月場所で日本人横綱同士の隆の里対千代の富士戦以来29年ぶりの14戦全勝対決であるが、初めて外国人力士や大関が参加した対決となった。また、14勝1敗で優勝を逃した横綱として、2009年9月場所に横綱朝青龍に決定戦で敗れて以来、最多の通算4場所目となり(2位は羽黒山、栃錦、大鵬、貴乃花の2場所。白鵬は2009年だけで1月・5月・9月場所の3場所において、いずれも14勝1敗の決定戦で優勝を逃しており、この時点で最多)、不名誉な単独1位の更新となった。
9月場所では横綱在位数が31場所を迎え、歴代単独10位の記録となり、不知火型の横綱では羽黒山を超える史上単独1位の記録となった。しかし10日目の栃煌山戦で敗れ、7個目の金星配給を許してしまう。千秋楽も大関で2場所連続全勝で横綱を目指した日馬富士に、大熱戦の末下手投げに敗れ13勝2敗に終わった。尚白鵬が3場所連続で幕内優勝を逃したのは、横綱に昇進して以降初めてとなる。
翌11月場所は日馬富士が第70代横綱に昇進。新横綱誕生は2007年7月の白鵬以来32場所ぶり、東西二人の横綱が出揃うのは2010年1月の朝青龍と白鵬以来16場所ぶりとなった。なお日馬富士も横綱土俵入りは不知火型を選択したが、本場所で不知火型の土俵入りを複数披露する横綱は大相撲史上初めて。また白鵬の横綱在位数32場所は、千代の山と並ぶ歴代9位タイ記録である。この場所は11日目に大関琴欧洲に初黒星を喫したが翌12日目の大関・琴奨菊戦は勝利し、本人の取組後に日馬富士が敗れたため、大相撲史上初の6年連続での年間最多勝を確定させた。また14日目に琴奨菊が旭天鵬に勝利したことで、貴乃花を上回る4場所ぶり23回目の幕内優勝(大鵬、千代の富士、朝青龍、北の湖に次ぐ史上5位)、さらに九州場所6連覇(同場所の史上最多数は千代の富士の8連覇・1981年 – 1988年)を達成した。2010年1月場所以来となった千秋楽結びの横綱同士の一番でも新横綱日馬富士を破り、14勝1敗で取り終えた。
2013年
1月場所で横綱在位数が33場所となり、歴代単独9位に。しかし序盤3日目、妙義龍戦で自身8個目の金星を許して1敗。その後12日目に琴欧洲にも敗れ2敗に後退。結局同場所を無敗で進む日馬富士を逆転できず、14日目に優勝をさらわれてしまった。千秋楽も日馬富士に敗れて12勝3敗に終わった。
3月場所は2009年11月場所以来、19場所ぶりに西横綱の地位となった。この場所は序盤から好調であり中日に勢を上手投げで下し、中日勝ち越し場所を26場所とし、千代の富士の25場所を抜いて歴代1位となった。さらに10日目、大相撲の末把瑠都を上手出し投げで下して10連勝、幕内連続二桁勝利記録が37場所となり北の湖と並び歴代1位タイ記録となった。その後も全勝を守り13日目に豪栄道を上手投げで破り、前の取組で2敗で追っていた隠岐の海が栃煌山に送り出しで破れ3敗に後退したため、歴代4位の北の湖に並ぶ24回目の優勝を千秋楽を待たずに決めた。千秋楽は日馬富士を上手投げで破り、9度目の全勝優勝を決めた。これにより全勝優勝回数でも双葉山、大鵬を抜いて歴代単独1位となった。
5月場所も先場所同様無敗で中日勝ち越し。10日目に豪栄道をとったりで下し10連勝、幕内連続二桁勝利記録が38場所となり、長年北の湖が保持した記録をついに破って歴代単独1位に。翌11日目の琴欧洲戦も上手投げで下して、横綱勝利数が467勝目に達し輪島を超える歴代4位の記録となった。そして14日目、稀勢の里と13戦全勝同士の対決は、大熱戦の末白鵬が掬い投げで制し単独トップに立った。翌日の千秋楽は、結び前の一番で稀勢の里が琴奨菊に寄り倒され13勝2敗となった時点で、歴代3位の朝青龍と並ぶ白鵬の25回目の優勝が決定。そして結びの一番では日馬富士を寄り切って、大相撲史上初の二桁となる10度目の全勝、さらに2場所連続全勝優勝(3月場所初日から30連勝)も達成した。場所後に優勝記録で朝青龍と並んだことから本人から祝福された一方で「偉大なる私に追いついたと思うのは100年早いぞ」と朝青龍なりに威厳を誇示するコメントも寄せられた。
7月場所も先場所同様無敗で中日勝ち越し。10日目に妙義龍を小手投げで下し10連勝、史上初となる2回目の40連勝を達成した。12日目の琴奨菊戦で右わき腹を負傷したが、痛みを抱えながらも13日目に琴欧洲戦に勝利し、歴代単独3位の26度目の優勝を決め、自身の連勝も43まで伸ばしたが、翌14日目稀勢の里に寄り倒しで敗れ、3年前同様稀勢の里に再び連勝を止められた。千秋楽は日馬富士に一方的に押し出され、13勝2敗に終わった。しかし千秋楽一夜明け会見では「あの男を超えられてよかった。これで、もう文句言わないだろうな。こういう気分で、しばらく、威張っていたい」と朝青龍の優勝25回の記録を超えたことで上機嫌な様子を見せていた。
9月場所も、初日から8連勝で史上最多の29度目の中日勝ち越しを決めた。また、中日には宝富士に、1997年3月場所9日目に貴乃花が剣晃に決めて以来、16年ぶりの呼び戻しでの勝利を飾った。しかし10日目に豪栄道に押し出され初黒星を喫した。その後は白星を重ね、14日目に先場所連勝を43で止められた稀勢の里を叩き込みで下し、4場所連続27回目の優勝を14日目に決めた。千秋楽も日馬富士を小手投げで下し、14勝1敗の成績で締めくくった。14勝以上の場所は23度目で、共に22度の大鵬、千代の富士を抜いて単独最多となった。
11月場所は2日目の隠岐の海戦に勝利した時点で、7年連続7回目の年間最多勝を確定させる(7回目の年間最多勝は北の湖と並び史上1位タイ)。また10日目の栃乃若戦で10連勝、横綱在位中の連続二桁勝利記録が38場所となる(従来は北の湖の37場所)。さらに11日目の栃煌山戦の勝利で、史上最多となる年間最多勝80勝以上を3回(2009年86勝・2010年86勝・2013年)達成した(過去は北の湖の1977年80勝・1978年82勝、貴乃花の1994年・1995年共に80勝の、各2回が最多記録)。しかし14日目、稀勢の里を土俵際に追い込んで下手投げを打つも、逆に上手投げで投げ捨てられて初黒星を喫した。千秋楽結びの一番は日馬富士との13勝1敗同士の相星決戦となったが、立ち合いで変化されて土俵際に追い込まれ、こらえたかに見えたがわずかにかかとが出ており敗れた。これにより、2010年11月場所以来の5連覇と11月場所での7連覇をも逃した。
2014年
1月場所では初日に栃煌山を押し出しで破り、大鵬の記録を更新する史上最速の76場所での通算800勝(前相撲を除く)を挙げ、続く2日目には豊ノ島を引き落としで破り、幕内通算707勝として武蔵丸を抜いて、外国人力士の最多勝利を更新した。5連勝で5日目で早くも単独トップとなると、中日には自身2度目の6場所連続での中日勝ち越しを決め、10日目には10連勝で通算50度目の二桁勝利とした。しかし、14連勝で迎えた千秋楽の結びの一番では1敗の鶴竜に寄り倒しで敗れ、14勝1敗同士で優勝決定戦となるが、決定戦では鶴竜を寄り切りで破り、2場所ぶり28度目の幕内最高優勝を果たした。
3月場所は初日から12連勝、また8日目には自身と並ぶ「7場所連続幕内中日勝ち越し」の史上1位タイ記録を達成。しかし13日目に琴奨菊に敗れた時に右手を負傷してしまう。このケガの影響で14日目に綱獲りを狙った鶴竜に寄り切られて2敗に後退、千秋楽では日馬富士と対戦し同体で取り直しとなるも敗れて3連敗となり、優勝を逃した。
5月場所では「8場所連続幕内中日勝ち越し」を達成し、史上単独1位の記録となった。11日目に豪栄道に押し出される不覚でついに連勝ストップ。翌12日目の結びの一番(鶴竜 – 豪栄道)では、勝ち残りで東の土俵下に座っていた白鵬が、行司の判定に異議があるとして物言いをつけた。協議した結果、豪栄道がはたき込んだ際にまげをつかんだとして、鶴竜が反則勝ちを得た。幕内の取組で土俵下に控えていた力士が物言いをつけたのは、1996年1月場所の当時大関だった貴ノ浪以来18年ぶり。14日目の新横綱・鶴竜戦でも危なげなく寄り切り、千秋楽結びの一番も日馬富士を豪快な上手投げで破り14勝1敗、2場所ぶり29回目の幕内優勝となった。
7月場所は横綱在位42場所となり、朝青龍と並んで歴代8位タイの記録となる。同場所で「連続幕内中日勝ち越し」が9場所となり、自身の記録を更新。しかし11日目に豪栄道に浴びせ倒しで敗れ初黒星を喫した。13日目も大関・稀勢の里に小手投げで敗れ2敗に後退。しかし千秋楽に日馬富士を上手出し投げで下し、13勝2敗で史上3人目の幕内優勝30回を達成した。
9月場所は横綱在位43場所を迎え、朝青龍を抜き歴代単独8位の記録に。同場所も初日から8連勝、「連続幕内中日勝ち越し」が10場所となり、大相撲史上初の2桁記録を達成。9日目に全勝で単独トップに立ち、その後12連勝としたが、13日目にここまで2連敗と苦手の豪栄道に敗れ初黒星を喫した。これにより新入幕で同モンゴル出身の逸ノ城と1敗同士で並んだ。翌14日目にその逸ノ城と対戦(これにより大関・琴奨菊との取組が消滅)し、上手出し投げで破り再び単独トップに立つと、千秋楽も横綱・鶴竜を掛け投げで破り、14勝1敗で千代の富士と並ぶ史上2位の通算31度目の幕内優勝を達成した。
11月場所は6日目に髙安に敗れ、自身9個目の金星を許し2年ぶりに前半戦で1敗を喫した。その後は白星を並べ、7日目に大鵬と並ぶ872勝にならび、8日目の照ノ富士戦に勝利した時点で、史上1位となる8年連続8回目の年間最多勝を確定させる。13日目に単独トップに立ち、14日目の日馬富士戦で2年連続通算4回目の年間80勝を達成。千秋楽結びの一番の鶴竜を寄り切りで下し4場所連続優勝。大鵬と同じ年間勝利数81勝で、同じく大鵬の優勝回数に並ぶ32回目の優勝を果たした。
2015年
1月場所では初日に栃煌山を突き落としで破り、続く2日目にも栃ノ心を下手投げで負かし、危なげなく着実に白星を挙げていく。12連勝で迎えた13日目、10勝2敗で白鵬を追う大関の稀勢の里を押し倒しで破り、大鵬が保持していた幕内最高優勝記録である32回を上回る33回目の優勝。歴代1位となった。この優勝は大鵬に続いて大相撲史上二人目の2回目の5連覇で13日目での優勝は2013年名古屋場所以来6度目で自身の最多記録を更新。続く14日目、横綱日馬富士を破り、史上最速で幕内800勝を達成した。千秋楽には鶴竜を寄り切りで破り、9場所ぶり通算11度目の15戦全勝を果たし、大相撲史上初の各場所すべて全勝優勝(全6場所全勝制覇)を成し遂げた。15日目の懸賞金では史上最多の61本(183万円)を獲得した。しかし後述の審判批判を行ったことで相撲協会から問題視された。
3月場所では初日の妙義龍戦は押し倒し、続く2日目の佐田の海戦では上手投げで勝利し、順当に星を積み重ねる。6日目の髙安戦では引き落としで勝利し、自身5度目の30連勝を達成する。13日目に好調の関脇・照ノ富士に敗れたものの、14日目は稀勢の里、千秋楽は敗れれば照ノ富士と優勝決定戦という状況だった。自身の弟弟子の照ノ富士に援護射撃をしたい日馬富士戦では2分を超える大熱戦の上勝利し、34回目の優勝を果たした他、自身2度目の6連覇を果たした。
史上初の2度目の7連覇を狙った5月場所では初日でいきなり逸ノ城に敗れ、2012年5月場所以来3年ぶりとなる初日黒星スタートで波乱の幕開けとなった。しかし、2日目以降は宝富士を寄り切りで破り、翌3日目も栃ノ心に寄り切りで勝利し、着実に白星を重ねていった。5日目には栃煌山を上手投げで破り、横綱在位中の勝ち星が626となり、千代の富士を抜いて歴代単独2位となった。しかし12日目、直近1年の対戦成績が3勝3敗と苦手にしている豪栄道に土俵際で十八番の首投げを食らって敗れ、2014年7月場所以来6場所ぶりの2敗となった。さらに14日目には稀勢の里にこれまた土俵際で十八番の突き落としで敗れ、2014年3月場所以来約1年ぶりの3敗となった。優勝争いのトップとなる3敗が白鵬・照ノ富士の2人、4敗が6人と大混戦で迎えた千秋楽、照ノ富士が敗れて白鵬が勝てば前人未到となる自身2度目の7連覇だったが、照ノ富士が碧山に勝利し、「白鵬が日馬富士に勝てば照ノ富士と優勝決定戦」となった。自身2度目の7連覇を狙って挑んだ照ノ富士の兄弟子の日馬富士戦。立ち合いから一気に土俵際まで押し込んで勝負あったかと思われたが、俵を蹴り台に使うという奇襲から体が浮き上がるほどの低い突進を食らって中に潜り込まれ、そのまま何もできずに寄り倒されてしまい、惜しくも優勝はならなかった。この場所は11勝4敗で取り終え、2012年7月場所から続いた連続12勝以上勝利記録は17場所で途切れた。白鵬が4敗以上するのは2012年5月場所以来3年ぶりであった。
7月場所では9日目の逸ノ城との対戦に勝利して初日から9連勝を記録。しかし、勝負が決まった後に逸ノ城に対して右手で顎にアッパーをしたことで、土俵下で審判長を務めた藤島審判部副部長から「見苦しい? 見苦しいでしょう。相手が(土俵を)出ていないと思って行ったのならダメ押しじゃないけど、出てると思って(やったの)ならダメ押しでしょう。一番、番付が上なのだから、見本になるような立ち居振る舞いをしてもらいたい」と苦言を受けた。翌日は栃煌山に叩き込みで敗れるもこの1敗を守り、今場所は14勝1敗で2場所ぶりに35度目の優勝を果たした。
9月場所は初日に小結・隠岐の海、2日目に前頭筆頭・嘉風と、過去に一度も負けたことのない相手に2日続けて敗れた。嘉風に敗れたことで自身10個目の金星配給となり、白鵬が小結時代の2005年11月場所以来、また横綱になって初めての連敗スタートとなった。場所前の稽古で左膝を痛めており、「左大腿四頭筋腱炎で4週間の加療を要する見込み」との診断書を提出し、3日目の碧山戦で不戦敗となり、4日目から横綱昇進後初の休場となった。これにより昭和以降1位の幕内連続勝ち越し、連続2桁勝利記録はともに51場所でストップ、史上1位の横綱としての連続出場記録は722回で途切れることになった。
横綱昇進後初の休場明け場所となった11月場所は初日から12連勝と好調で、9年連続の年間最多勝を獲得した。しかし、13日目に1敗で追っていた日馬富士に変化からの一気の寄り倒しに敗れ、1敗に後退。さらに14日目には照ノ富士との2分を超える大相撲の末に寄り切られ、日馬富士に逆転を許してしまう。千秋楽では先に日馬富士が稀勢の里に敗れたため、勝てば優勝決定戦であったが、鶴竜にもろ差しを食らって寄り切られてそれは成らず。2014年春場所以来となる12連勝からの終盤3連敗で日馬富士に優勝をさらわれ、場所を終えた。白鵬が西横綱の地位で優勝を逃したのは2008年夏場所以来のことで、また2場所連続で優勝を逃したのは2012年5月・7月・9月までの3場所連続以来のことである。
2016年 -通算1000勝-
1月場所は大関・琴奨菊と共に初日から10連勝、5日目の碧山戦で北の湖と並ぶ通算951勝(史上4位タイ)となり、6日目の栃ノ心戦で歴代単独4位となる通算952勝目に。しかし11日目の琴奨菊戦で押し出されてついに初黒星。さらに14日目の稀勢の里戦でも一方的に押し出されて2敗に。この敗戦で通算200敗目を喫した。千秋楽結びの一番の日馬富士戦でも呆気無く上手投げに敗れ3敗。結局幕内優勝は、日本出身力士として大関・琴奨菊が栃東(玉ノ井)以来10年ぶりに達成した事により、白鵬は横綱昇進後2度目の3場所連続して優勝を逃す格好となった。
3月場所は自身初の3場所連続西横綱の場所となった。初日、一度も負けたことのない宝富士に寄り切られ先場所13日目から4連敗に。2日目は前頭筆頭にまで番付を上げた琴勇輝と初顔合わせの一番を制して北の湖を抜いて単独1位となる横綱通算671勝とした。その後は白星を続け、11日目にはここまで全勝の稀勢の里を圧倒。続く12日目には同じく1敗の豪栄道を倒し、14日目には先場所敗れた琴奨菊に快勝し、千秋楽では日馬富士との横綱対決を制し、最終的には14勝1敗で単独優勝、36回目の幕内優勝を果たした。この場所の千秋楽結びの一番での日馬富士戦での立合いで批判を浴び、表彰式での優勝インタビューでは、涙ながらに謝罪する場面もあった。また、場所後の会見で「(36度目の優勝を)ずっと目標としてやってましたから。やっとオヤジにいい報告ができる。体を悪くして、アルツハイマーの病気をしてますから」と父がアルツハイマー病を患っていることを明かし、「難しいことを言ったら分からないところがある。最近のことが分からない。昔のことはよく思い出すみたい」と病状を説明。「支えてくれて感謝している。今度は私の番。親として3人の子供がいますからね。立派な力士を作っていきたいね」と将来の抱負も話した。
5月場所は前場所2日目からの連勝を継続し、2日目に魁皇の持っていた幕内最多勝利記録879勝を更新。幕内勝利数が歴代単独一位となる。4日目には初顔の正代を押し出して4連勝し初顔27連勝となり歴代単独3位に浮上。6日目には先場所からの連勝を20に伸ばし自身8度目の20連勝とする。さらに8日目で勝ち越し、自身が持つストレート給金の最多記録を41(1949年の1場所15日制定着以降)に更新。13日目には初日から同じく連勝を続けていた大関稀勢の里との全勝対決を左下手投げで制して単独トップに立った。翌日、日馬富士との横綱対決を寄り切りで制し、1敗で追っていた稀勢の里が鶴竜に寄り切りで敗れたため千秋楽を残して2場所連続37回目の優勝を決めた。14日目までに優勝を決定させるのは16度目となり、千代の富士を抜いて歴代単独1位となった。場所前に受け入れ先となってくれた摂津倉庫の浅野毅会長が、4月23日に内臓疾患で死去。「春場所が終わってから病院で30分くらい話した。息が詰まって苦しそうだった。懸賞金をそのときにあげた。喜んでくれて、奥さんが見える場所に置いてくれた。天国から見守ってくれれば、と思います。恥をかかせない、という気持ち」と記者へ恩師にささげる優勝だったことも明かした。千秋楽も激戦の末にうっちゃりで鶴竜を下して自身の最多記録を更新する12度目の全勝優勝を決めた。優勝インタビューでは「一年半ぶりの優勝が東京で本当にうれしい。全勝は気持ちいい。場所前には古傷を痛め、3日目から足を痛めていてどうなるかと思ったが自分を奮い立たせた。自分では分からないけど、土俵に上がると違う白鵬がいるようだった。土俵を下りたら優しいというね。五月場所が終わったら、横綱に昇進して10年目に入るので、頑張ろうという気持ちで一生懸命やっていた。大鵬関の32回目の優勝を超えてから目標がなくなり、いろいろ大変な時期があったけど1000勝というものが燃えさせてくれた。名古屋場所で応援してくれる方に見せられればと思うけど、ゆっくり休みたい」と話した。
7月場所は前々場所からの連勝を継続し、初日に横綱勝利700勝を記録、さらに自己記録更新となる史上6回目の30連勝を記録。3日目には御嶽海を寄り切り初顔への連勝を玉錦に並ぶ史上2位の28とした。だが、5日目に宝富士に敗れ33連勝で連勝が止まる。また、33連勝のスタート前の黒星も宝富士であった。8日目には幕内勝利900勝を記録したが、9日目に一度も負けたことのない勢に足を滑らせて敗れ2敗となり、通算12個目の金星配給。9日目までの時点で2敗したのは2012年夏場所以来4年ぶりのことである。さらに勢戦で古傷だった右足親指を痛めてしまう(場所後に骨折だったと判明)。10日目栃ノ心に勝利し、初顔合わせから23連勝の歴代2位タイ記録をつくるも、怪我が影響したか12日目の照ノ富士戦で待ったがかかり取り直したとなった取組で敗戦し3敗に後退し通算1000勝は来場所へ持ち越しになった。翌日の豪栄道戦は勝利し2ケタ勝利としたものの、14日目は12日目に続いてこの日も待ったがかかり取り直しとなった一番で土俵際で稀勢の里に逆転され優勝争いから脱落した。取組後「もういいやと思った」と照ノ富士戦に続いての待ったにリズムが崩されたことを明かし「合っているのに…」と際どい待ったで気持ちの整理が出来なかったことも呟いていた。そして、土俵際まで攻め込んでの逆転負けに「あれで負けたら仕方ない。相撲に勝って勝負に負けた」と敗戦を認め、千秋楽については「今日みたいに前に出られれば」と気持ちを切り替えていた。迎えた千秋楽、優勝をかけて土俵に上がった日馬富士に敗れ10勝5敗で場所を終えた。皆勤での1場所5敗は2012年5月場所以来4年2か月ぶりであり、休場した2015年9月場所を除くと横綱昇進以来、2012年5月場所に並ぶワーストタイの低成績である。白鵬が日馬富士に敗れたため3敗で追っていた稀勢の里、貴ノ岩は優勝次点で終了し、優勝決定戦にはならず日馬富士は8度目の優勝を決めた。
7月場所後の巡業は怪我を押して出場したものの、9月場所前には7月場所9日目の怪我の影響で四股やすり足すらできず、9月6日には手押し相撲や足の上げ下げなど軽めの調整をしながら出場を検討していた。しかし土俵に上がれる状態ではなく、8日に日本相撲協会に「左膝タナ障害」「右母趾(ぼし)伸筋腱(けん)損傷」「右足関節炎」で全治4週間の診断書を提出し、9月場所の全休を発表した。10月20日、大相撲秋巡業京都場所で復帰し、土俵入りを行った。
11月場所は復帰し自身初の東横綱2の番付で場所に挑む。そして、2016年11月15日、魁聖戦で勝利して通算1000勝を達成した。取組後のインタビューで、史上初めて通算1000勝を達成した千代の富士と同様に「(次の目標は)1001勝です」と答えた。しかし、6日目に遠藤に不覚をとり、さらに10日目にも土俵際で勝利したと思ったところを稀勢の里に脚一本で残され敗れてしまう。白鵬は「決まったと思った。休場で勝負勘が足りないのかもしれない」と首をかしげていた。弟弟子石浦の活躍には「一気に来たね。うれしいね」とコメントしていた。また、場所前に痛風を発症し故障の完治が遅れていたことなども判明。八角理事長は「休場明けにしてはよくやったと思う。最後に稽古不足が出た。場所前がいつも通りではなかったわけだから」とコメントした。翌日は勝利するも12日目から照ノ富士、鶴竜と連敗し優勝争いから脱落。だが、この場所14日目に優勝争いしていた横綱日馬富士、千秋楽は綱取りだった豪栄道を倒し11勝4敗で休場明けの場所を終えた。場所後の12月14日、第4子となる三女が誕生。
2017年 -通算最多勝利更新・優勝40回-
前場所と同じく東横綱2で迎えた2017年1月場所は順調に初日から連勝。4日目に栃ノ心に寄り切りで勝利し同一取組の初顔合わせからの連勝では歴代単独2位を記録した。7日目には横綱出場回数が歴代1位となる819回目となり並んでいた北の湖の記録を更新しこの日の取組にも勝利している。しかし、8日目に初顔合わせとなった荒鷲に立合い変化されそこは素早く対応をするも廻しを取られ劣勢になり、そのあとのこの場所鶴竜戦でも見せていた荒鷲の速攻に勢いよく時計回りに体を回されて不意をつかれて寄り切られる不覚をとり、中日での勝ち越しならず、初顔合わせの連勝も28で止まり1敗に後退した。荒鷲はここまで鶴竜戦での金星以外の勝ちが無くこの場所2勝目を2個目の金星であげることになった。白鵬は支度部屋でも何度も首を振り厳しい表情を見せつつ「まあ見ての通り。こういうこともある」と話し、どこか隙があったことを認めて気持ちを切り替え、1差で追う展開には「もうダメー」と笑う余裕も見せていた。だが、翌日の小結高安戦は立合いから攻め込まれ連敗。2敗に後退した。また全勝だった稀勢の里も敗れたため1差は変わらず。白鵬は「気合いが空回りした」と稀勢の里の敗戦後の取組を反省しながらも古傷の右足親指を気にするそぶりも見せ体調がまだ万全ではない様子も見せ「立ち合いで勝負あった」「横綱でも、ちょっとズレがあると負けるということ」と相撲の難しさを淡々と語っていた。そして「一番一番だよ」と勝負どころを見据えて気合いを入れていた。10日目の勢戦は危なげなく勝利し勝ち越し。また、昨年の名古屋場所で勢に敗れた際に右足親指を負傷しこの怪我のために左膝の痛みがぶり返した。それ以来の因縁の対戦とあって「きょうはリベンジというか突いていく意志を固めていった」といつも以上に気合いが入っていたと語っていた。また、11日目までに日馬富士、鶴竜ともに休場したためこの場所横綱は白鵬のみとなり、14日目は上位陣の休場が相次いだためこの場所優勝争いしていた平幕の貴ノ岩との対戦が初めて組まれる。実力差からすると勝利が濃厚だったが、一方的に寄り切られるというまさかの展開で敗れ、3敗に後退。8日目の荒鷲戦に続き初顔2連敗となり、横綱昇進後自身初の結果となった。この日稀勢の里が勝利したため、横綱昇進後初めて4場所続けて優勝を逃したと同時に稀勢の里の横綱昇進を許す結果となった。この日敗戦してしまった白鵬は初優勝を決めた稀勢の里について「おめでとう、だね」と祝福の言葉を贈り「強い大関がいて良かった」と稀勢の里の活躍を笑みを浮かべて褒め称えていた。千秋楽での稀勢の里との直接対決前には「明日もいい相撲取るだけ」と語った。千秋楽の稀勢の里との対戦は立合いから敢えて稀勢の里得意の左四つに組み一気に攻め込むも、土俵際のすくい投げで敗れ、2場所連続11勝4敗で場所を終えた。白鵬は稀勢の里を「最初は軽いと思ったが土俵際で残された。土俵際で強かったね。強い大関になった感じ」と語り、稀勢の里に「強い人が大関になり、宿命を持った人が横綱になる」と言ってきた白鵬は横綱昇進への最後の壁として「今日は宿命というか、運命に任せたんだけどね。強い大関が優勝しましたね」と勝利を称えて言葉を贈った。また、今場所を「取りこぼしがあり過ぎた」と反省。来場所については「精いっぱいやっていい相撲を取りたい」と語っていた。
3月場所は稀勢の里の昇進で4横綱となり、自身は東横綱として番付最上位で迎える。しかし、場所前に右足裏を痛め、初日の正代戦で突き落としで敗れた際に傷が悪化。4日目には勢に圧倒される形で寄り倒され(物言いがついたが軍配通り敗北)、通算15個目の金星配給となる。患部をかばっているうちに他の場所まで悪化し結局、翌日の5日目から「右母趾捻挫、右大腿筋群損傷で3週間の加療を要する」との診断書を提出して休場した。5日目対戦予定だった御嶽海が不戦勝。休場は5度目で、横綱昇進後は3度目。この休場で横綱になって5場所続けて優勝から遠ざかる格好となってしまった。その後モンゴルに帰国してリハビリに取り組み、ヨガや食事療法なども行い、春巡業は靖国神社奉納大相撲から参加した。久しぶりに土俵に上がった白鵬は「春巡業の優勝争いはテレビで見ていた。稀勢の里は横綱の責任を果たしてくれた。今度は自分が優勝するという気持ちになりました」と5月場所で1年ぶりの賜杯奪還を果たすことに意欲を見せた。さらに白鵬は「知人からは40回以上の優勝は誰もいないと言われて体が熱くなりました。いつ達成できるか分からないが、大台の40回を平成の土俵で見せたいです」と新たな目標に向かう決意を語った。3月場所後、12代宮城野から「いっぺんやってみたら」とこれまで主義として行わなかった筋力トレーニングによる強化を提案され、これまで以上に体をいじめ抜き、12代宮城野に「死ぬかと思った。こんなにきついのは大関に上がる時以来だった」と漏らすほど自らを追い込んだ。
5月場所は自身初の西横綱2の番付で迎える。初日から好調で2016年夏場所以来となる中日勝ち越しを記録した。10日目の高安戦では高安の馬力を警戒して右の張り手から右に動き、左上手を確実に取りに行き、寄り切れないと判断した後は頭を付けた(寄り倒しで白鵬の勝ち)。この相撲は場所後の尾車のコラムでも触れられている。そのまま勢いに乗って14連勝で38度目の優勝を決めた。1年ぶりの優勝に白鵬は「長かったかなと、改めて自分と見つめ合い、土俵に感謝していた」「全部特別だけど、今回はひと味違う」「頑張って努力すれば、こうやってやれると示せた。休んだ分、暴れてやろうという気持ちでやった」と感慨深げに語っていた。5月場所は8回目の優勝でこれで大鵬に並ぶ12年連続の優勝となった。千秋楽も日馬富士を倒し自身の記録を更新する13回目の全勝優勝を決めた。優勝インタビューでは「ただ今、帰りました!」と挨拶した。また、5月場所は2年連続の全勝優勝となった。一夜明け会見では3日目の千代翔馬戦で左足親指を打撲(あるいは脱臼)したことを明かしている。
7月場所は東横綱で迎え、5日目には先場所から20連勝で大鵬に並ぶ9度目の20連勝。さらに先場所に続き中日勝ち越しを記録した。さらに9日目には平幕の輝と対戦し勝利。歴代2位の勝ち星だった千代の富士に並び、翌日の千代の富士の弟子だった千代翔馬に勝利し、千代の富士の記録を抜いた。番付では東前頭5枚目と対戦する可能性は低いが横綱、大関と休場が相次いだために実現し、白鵬は「巡り合わせというかね。弟子に勝って恩返しできたのかな」と笑みを浮かべた。だが、11日目はこの場所横綱稀勢の里を倒すなど好調だった関脇の御嶽海に土俵際で粘るも敗れて黒星。先場所からの連勝は25で止まった。白鵬は記録への重圧などもあって硬くなったかもしれないと口にしていた。しかし、翌日は問題なく関脇の玉鷲を倒し、歴代1位の魁皇に並ぶ1047勝目を記録した。翌13日目の7月21日、大関の高安を押し倒しで下して1048勝とし、前人未到の新記録を達成した。白鵬はインタビューで「満足しています。硬くはなかったんですけど、ちょっと安心したというのがありましたね。相撲は奥が深い。秋場所じゃなくて名古屋場所で応援してくれる人の前で決めることができて良かったですね」とコメントしていた。このまま勢いに乗り千秋楽まで全て勝利し14勝1敗で39回目の優勝を決めた。自身9回目の連覇で名古屋場所は7回目の優勝。白鵬は優勝インタビューで39回目の優勝にかけて「名古屋のみなさん、サン・キュー!」と言っており、「11日目に負けてしまいましたが、そのあと(の相撲)が良かったので、もう1番あると信じて、気楽に土俵に上がりました」と、御嶽海に敗れた後に、自らの気力を奮い起こしたことを明らかにした。インタビューではまた、誰も歩いたことがない道をどんな思いであるくかと聞かれて、子供の頃に過ごしたモンゴルの草原を思い出したのか「ゆっくりあしたからふるさとに帰って休む」と語った上で「幕内1000勝を目指します」と新たな目標を示して飽くなき挑戦心を見せていた。
7月30日から始まった夏巡業では、他の3横綱が休場する中で「自分が休んだ時も他が頑張ってくれた。今回は託されたと思って」と夏巡業を1人横綱としてまっとうする決意を口にした。しかし、7月場所前に発症した左膝痛の治療に専念せざるをえなくなり8月13日から無念の帰京となった。
症状は場所前になってもおさまらず結局、9月場所は左大腿四頭筋腱炎、左足関節靱帯損傷で7日から約3週間の投薬リハビリテーション加療を要する見込みとの診断書を提出して休場した。12代宮城野は左ヒザの炎症で全治3、4週間と説明し「横綱は無理をして変な相撲を取って途中から休場など迷惑をかけるなら万全で出たいという気持ちがあったのでは」と説明していた。休場した9月場所中には4日間の断食に取り組むなどして調整し、体重を10㎏落とした。11月3日、福岡県内の宮城野部屋九州場所稽古場に出稽古に訪れた錣山部屋の十両青狼、阿炎と申し合いを行い、計12番で全勝。
11月場所は西横綱で迎える。しかし、初日から鶴竜が休場。さらに3日目から日馬富士が休場し残りの稀勢の里まで10日目に休場してしまい、横綱は自身一人だけになってしまう。そんな中でも初日から連勝し8日目にストレート勝ち越しを決めた。白鵬の中日勝ち越しは44回目となった。そのまま連勝していたが11日目に立ち合いで先に嘉風の顔を張ったがそのまま嘉風に攻められ黒星。1敗となった。白鵬は立ち合いが合わなかったと納得がいかないアピールで取組が終わったあともしばらく土俵下に残り物言いをつけたが認められず、翌日審判部から厳重注意と取り組みを行った力士には物言いを付ける権利が無いという規則説明を受け、「真摯に受け止めて、きちんとします」と反省の言葉を述べた。この12日目の取組は休場前の7月場所で不覚を取っていた御嶽海だったが何もさせずに勝利している。また取組後に「申し訳なかった」とファンに謝罪し「ファンの皆さんもあんな(中途半端な)相撲を見たくなかっただろうし、だから(取組の映像を)見てほしかった」と語っていた。13日目の宝富士戦は本人もいる人がいなかったという薄氷の勝利でなんとか勝ち2年ぶり10度目の年間最多勝を達成した。14日目に2敗で追っていた力士が破れ自らは勝利したため40回目の優勝を決めた。白鵬は「3月に休んだ時に、後援会の方から『30回優勝した人は3人いるが、40回は誰もいない』と言われ、体が熱くなった。ちくちくするものがあった」と気合が入っていたことを明かし「7年前野球賭博問題に揺れた名古屋場所に大変な場所を経験した。二度とこういうことがないようにという気持ちを持っていた。本当に申し訳ない気持ちでいっぱい。ファンの温かい声援が本当にありがたい」と語っていた。千秋楽も勝利し14勝1敗で場所を終える。優勝インタビューでは改めて東京オリンピックまで現役を続けることを誓い、さらに「場所後に真実を話し、うみを出し切って、(暴行問題の当事者である)日馬富士関と貴ノ岩関を、再びこの土俵に上げてあげたいと思います」と宣言。また、2017年に取り組んでいたヨガや断食の効果が出ており、稽古は嘘をつかないものだとも話していた。次なる目標として幕内1000勝を掲げ、最後に観客と共に万歳三唱を行った。角界が不祥事に揺れており白鵬本人も場所中に自身の取組に「物言い」を求める事態を引き起こした中でのこの万歳三唱に関しては有識者からも批判が出ており、やくみつるは「暴行現場に同席した当事者の一人という自覚があれば、冗舌に語ることが許されないのはわかるだろうし、万歳をお願いできるわけがない。独善的な行動で問題の深刻さを全くわかっていない」と朝日新聞の記事で話していた。また、スポーツ評論家の玉木正之は「土俵に戻る戻らないは、相撲協会が決めることで、横綱が決めることではない。最近の白鵬は少し傲慢ではないか。それを許している協会にも責任がある」と断じた。この一連の振る舞いが、後述の一代年寄廃止論を決定づけたのではないかとする分析も存在する。2017年は56勝9敗25休(内1敗は不戦敗)で年間最多勝を獲得。しかし春場所と秋場所を休場し、計26も取組の少ない白鵬が獲得したことについて、朝日新聞の記事は「お寒い限りだった」と評している。
2018年
1月4日、日馬富士の貴ノ岩への暴行を現場にいながら止められなかったとして、日本相撲協会は1月の給与不支給と2月の給与の50%減額という処分を下した。1月場所直前の1月8日の出稽古から、横綱審議委員会から指摘されたかち上げ、張り手を中心とする取り口を改善する意識をうかがわせた。
1月場所は張り手やかち上げを自粛したことや右足親指を痛めたことが影響し、4日目まで2勝2敗となり5日目から「左母趾MP関節靱帯損傷、右母趾末節骨骨挫傷・爪下血腫で全治2週間を要する」という診断書を相撲協会に提出して途中休場。2月3日に行われた成田山新勝寺の節分会に関しては、直前の1月場所で途中休場を喫した都合上、成田山新勝寺の公式ホームページに掲載されていた参加予定者リストからいったん外されたが、場所後に参加を決めて実際に参加。3月場所番付発表の時点では横綱在位64場所を記録し、これにより単独史上1位の在位記録を達成。
2月11日の第42回日本大相撲トーナメントでは、この時点で本場所では25戦全勝と得意としている栃ノ心から右四つがっぷりからの寄り切りで黒星を付けられた。この時点では、両足の親指が黒ずんでおり左足首にもテーピングが施されているなど、怪我の状態の悪さが伝えられた。
3月場所は左足親指の怪我が回復しないことを理由に全休。2場所連続休場は横綱昇進後初となる。
休場明けとなった5月場所は6日目に初対戦の阿炎に金星を配給。12日目はそれまで25連勝中だった大関昇進を狙う栃ノ心に初めて敗れた。14日目に逸ノ城に敗れて優勝の可能性がなくなり、千秋楽も鶴竜に敗れて11勝4敗に終わった。
5月場所後の巡業では、第68代横綱朝青龍の甥にあたる豊昇龍に稽古をつけた。稽古を終えた豊昇龍は「横綱にぶつかることができて、うれしいです。去年、稽古してもらった後、自分はバーンと強くなってインターハイも準優勝できました」と語った。また、白鵬は、「自分も(朝青龍に)稽古をつけてもらったから、今度は(自分がその甥っ子に)稽古をつけてやってね。不思議だね、歴史は繰り返すね。あとは彼次第。」と、次世代のエースにエールを送った。
7月場所は初日から3連勝していたが支度部屋で足を滑らせて負傷。日本相撲協会に「右膝蓋腱損傷、右脛骨結節剥離骨折の疑いで2週間の安静を要する」との診断書を提出して休場した。4日目は不戦敗。8月1日の夏巡業小松場所では膝に溜まった水を注射4本分抜くなど重症ぶりが伝えられ、8月9日から10日まで巡業を一時離脱。
9月場所では初日から白星を重ね、8日目に中日勝ち越しを決めて横綱800勝に到達。14日目に14連勝で41度目の優勝を決めた。また、大鵬の12年連続優勝を更新する13年連続優勝を記録した。この日の勝利で前人未到の幕内1000勝を達成。翌日の千秋楽でも鶴竜を破って14度目の全勝優勝を達成した。24日、都内で一夜明け会見を行い、5日目に対戦した貴景勝を「大相撲を引っ張っていくのは間違いない力士」と称賛しつつ「(土俵際まで押し込まれたが)痛めていた右足一本で残せた。あれでやれるなという自信が芽生えた」と貴景勝戦で手応えを語った。 また、稀勢の里については「(横綱として)もっと経験してほしい。(次の対戦も)私は楽しみという言葉をあまり使わないが、そんな感じです」とエール。
10月中旬に秋巡業を離脱して右膝と右足首の手術を受けた影響で調整が遅れ、11月場所は全休することになった。 横綱昇進後、年間6場所中4場所が休場(全休・途中休場合わせて)となるのも、年間の優勝回数が1回に留まるのも、自身ワーストとなる。
2019年
1月場所は3横綱揃って迎えたものの、4日目に稀勢の里が引退、6日目から鶴竜が休場し、一人横綱となる中の取り組みは、序盤は安定性を欠くも白星を重ねて10連勝したが、11日目に再出場の御嶽海に敗れ休場を除いた連勝が28でストップした。再出場の力士に横綱が敗れるのは68年振りのことである。この1敗で崩れてしまい、優勝を争っていたここまで負けたことのない玉鷲、先場所優勝の貴景勝と連敗し14日目に4日目の北勝富士戦で足を痛めたとし、休場した。また、1月場所中に引退した横綱稀勢の里に対し、「寂しいって感じですね。」と述べ、思い出の一番を聞かれると、「63連勝で止められたときですね。あのときの負けがあったからこそ自分はここまで来れた。」と稀勢の里に感謝の意を示し、敬意を払った。
3月場所前の3月5日、二所ノ関一門の連合稽古で貴景勝と18番取って17勝1敗、玉鷲と11番取って全勝と、スタミナ十分であることを示して好調をアピールした。また、貴景勝の大関取りに関して、白鵬は、「自分(白鵬)以外との対戦が大事になってくるね。」と言い放ち、余裕を見せた。また、白鵬は「邪魔してやろうかな」と言葉にした。この言葉はかつて横綱千代の富士が当時平幕の貴花田(後の横綱貴乃花)に対して言い放った言葉である。また、偶然にも千代の富士のときは、昭和から平成へと時代が動き始めたばかりのときであり、それと同様に、平成から令和へと時代の変遷が行われる中での発言であり、大相撲の変革を予感させた。
そして、万全の状態で迎えた3月場所では、初日から着実に白星を重ね、9日目に小結御嶽海、10日目に同年初場所優勝力士の関脇玉鷲、11日目に大関昇進を狙う関脇貴景勝の挑戦をねじ伏せ、同年初場所の雪辱を果たした。その後も、白星を重ね、千秋楽の横綱鶴竜戦で右腕を負傷しながらも勝利し、この場所は15戦全勝優勝を飾った。この場所は、3場所振り42回目の優勝、そして、15回目の全勝優勝となり、平成最後の本場所に花を添えた。また、優勝連続年数を14年、全勝も5年に更新した。千秋楽の鶴竜戦で投げを打った際に右腕を痛めたため、賜杯は1人で受け取ることができず八角理事長に受け取りを手伝ってもらった。
優勝インタビュー後、客席に呼びかけて三本締めを行った。しかし本場所は千秋楽の表彰式後に神送りの儀式を行い終了するという決まりとなっており、25日の横綱審議委員会でもその点が問題視された。さらに相撲協会の「土俵上の礼儀、作法を欠くなど、相撲道の伝統と秩序を損なう行為」というコンプライアンス規定の違反となったため、2017年11月場所千秋楽に観客に万歳三唱を求めて理事会で厳重注意を受けたことも鑑みられ、理事会で処分の必要性などが審議されることとなった。
結局右腕の怪我が完治せず5月場所は全休。平成最後の場所を優勝で締めただけに、優勝を目標としていた令和最初の場所は出場すらできず悔しさを露わにした。また、この場所は優勝力士にトランプ杯が手渡される場所であり、特別な場所として優勝を逃す結果となったのは自身初となった。(この場所優勝したのは平幕の朝乃山)
5月場所後には自身の内弟子である新入幕の炎鵬が5月場所で負け越したことを受け、炎鵬に対し、「幕内は甘くないだろ。稽古つけてやる。次お前が負け越したら、責任とって俺は引退する」と言い放った。
6月25日の稽古では、痛めた右腕でダンベルトレーニングを行うなど、怪我が快方に向かっていることが報じられた。
6月28日、モンゴル政府筋の話として、ハルトマーギーン・バトトルガ大統領が、白鵬が日本国籍取得のために申請したモンゴル国籍離脱申請を認める大統領令を発令したと伝えられた。
また、7月場所前には5月場所優勝力士の朝乃山を呼びつけ三番稽古を行った。自身と相撲の型が似ているとし期待を寄せた。
全休明けの7月場所は自身の記録を更新する形で48回目の中日勝ち越しを決めるが、翌日の逸ノ城戦で完敗して連勝が止まる。14日目に2敗目を喫し、千秋楽は自身が本割、決定戦で連勝をしなければ優勝できないという状況で鶴竜戦を迎え、寄り切りで敗れ12勝3敗で優勝次点の成績を残した。また、この場所は内弟子の炎鵬が勝ち越したことを受け、白鵬もほっとしたという。
9月3日、帰化により日本国籍を取得したことが同日付の官報で告示された。
帰化後初の場所となった9月場所は初日に北勝富士に敗れ、金星配給。初日に金星を配給したのは自身初である。翌日より休場した。
場所後の9月30日に行われた全日本力士選士権大会では、2007年以来12年振りとなる自身2度目の優勝を飾った。
11月場所は初日に前場所で敗れた北勝富士を下し雪辱を果たしたが、2日目に大栄翔に敗れた。しかし、3日目から白星を重ね、14日目に4場所振り43回目、横綱として40回目、「令和」および日本国籍を取得後初の優勝を果たした。九州場所の優勝は9回目となり千代の富士に並ぶ歴代1位タイとなった。
2020年
1月場所は前場所に敗れた新小結の大栄翔を寄り切りで下したものの、2日目に平幕の遠藤に切り返しで敗れ、3日目も平幕の妙義龍に突き落としで敗れ、4日目から休場した。
3月場所は新型コロナウイルス感染拡大防止のため75年振りとなる2度目の無観客開催となった。中日に勝ち越しを決め、49度目の中日勝ち越しとなった。初日から9連勝まで伸ばしたが、10日目に平幕の阿武咲、12日目に関脇の正代に敗れ、12日目終了時点で平幕の碧山に優勝争い単独先頭を許してしまった。しかし、13日目に大関昇進を目指す関脇の朝乃山をねじ伏せ、同時に碧山が敗れたことにより、13日目終了時点で鶴竜と碧山と共に再び優勝争い先頭に立った。14日目に平幕の碧山をねじ伏せ、千秋楽では7年前の九州場所の日馬富士戦以来となる鶴竜との横綱相星決戦を制し、2場所振り44度目の幕内最高優勝を果たした。さらに、優勝連続年数も15年に更新した。場所中には「無観客という異例の場所で初優勝力士が誕生したらその力士が可哀想だから自分が絶対に優勝する。」と発言しており、有言実行の結果となった。
5月場所は4月7日より発令された新型コロナウイルス感染拡大防止による緊急事態宣言が5月31日まで延長されることとなり、9年振り3度目の開催中止が決まった。
5月23日、大相撲Abema場所にてAbemaTVでリモート出演し、白鵬は、「四つになって自分に勝てる力士はまだいない。」と語った。それに対し、3月場所後に大関昇進を決め7月場所を新大関として迎える朝乃山は、「四つになって横綱(白鵬)を負かしたい。」と答えた。
6月7日、大相撲特別場所にてNHKでリモート出演し、その際に、解説者でお馴染みの第52代横綱北の富士勝昭は、「白鵬の牙城を脅かす力士ははっきり言って出てきていない。」と語り、大相撲界の未来への懸念を示し、白鵬を称賛した。
7月場所前、新型コロナウイルス感染拡大による稽古の制限から、前腕部や腹回りが明らかに張りを欠くなど調整不足が報じられた。
7月場所は新型コロナウイルス感染拡大防止のため、大勢の力士による名古屋への移動を避ける目的で東京開催となった。「新型コロナウイルス感染症対応ガイドライン」に基づいて観客を約2500人に抑えてはいたが、1月場所以来となる有観客開催となった。初日からストレートで勝ち越しを決め、2場所連続50度目の中日勝ち越しとなった。その後10日目まで連勝を伸ばしたが、11日目に小結の大栄翔、12日目に関脇の御嶽海に敗れ連敗し、10日目まで一敗で白鵬を追っていた朝乃山と照ノ富士に優勝争い先頭を許す形となった。12日目の御嶽海戦にて右膝半月板損傷、膝蓋大腿靱帯損傷、関節内血症を発症し、13日目から途中休場となった。またこの御嶽海戦での敗戦が自身の現役最後の黒星となった。(不戦敗を除く)
9月場所は8月に行われた膝の手術が完治しておらず、「右膝蓋大腿靱帯損傷、関節内巨細胞腫で約3週間のリハビリテーション加療を要する見込み」のため全休となった。
10月20日には両国国技館内の相撲教習所で行われた合同稽古に参加し、約3ヶ月ぶりとなる相撲を取る稽古を行った。御嶽海と三番稽古を行い22勝1敗。稽古後の代表取材では開口一番「30番いきたかったな!」と物足りない様子だった。翌日の10月21日には新大関の正代とも三番稽古を行い19勝1敗とし、11月場所へ向けて好調ぶりをアピールする結果となった。
しかし、11月場所は場所前の稽古が良かったものの「右膝関節鏡手術・術後血症で今後約2週間の加療を要する見込み」の診断書により全休となった。2場所連続全休及び3場所連続休場は自身初となった。
11月23日、横綱審議委員会は両国国技館での定例会合で白鵬と鶴竜に「注意」を決議した。2018年11月場所以降の計12場所の内3分の2に相当する8場所を休場している白鵬に対して矢野弘典委員長は「休みがあまりにも多い。深く強い責任を持って今後に対処してほしい」と語り「我々が強制するわけではないが、横綱が出場しない場所をあまり長く続けてはいけない」と述べた。
12月18日には阿武咲と三番稽古を行い14戦全勝、12月19日には髙安と三番稽古を行い9勝5敗、12月20日には11月場所優勝力士の綱取りが懸かる貴景勝と三番稽古を行い13勝2敗、12月21日には角番の朝乃山と三番稽古を行い17勝3敗とし、令和3年1月場所へ向け本格的に稽古を再開し好調ぶりを示した。貴景勝については「強い壁を乗り越えて昇進すべき」と述べ、1月場所で最大の壁として立ちはだかる意志を示した。さらに、「次を育てるという私の役目、大相撲の恩返しになると思う。今日の稽古も生きてくるんじゃないかな。自分自身もそうだけど。」と綱取りに挑む貴景勝の壁になることで、相撲界や自分自身の将来に繋がることを示した。
2021年
1月5日、日本相撲協会は白鵬が新型コロナウイルスに感染したことを発表。2020年9月にクラスターが発生した玉ノ井部屋と同様、部屋全体で場所全休の措置が取られた。そのため1月場所は全休となり、2020年7月場所から途中休場含め4場所連続休場、3場所連続全休となった。
その後無事に快癒し2月24日からは合同稽古に参加。24日に若隆景を相手に30戦全勝、25日に阿武咲を相手に20勝10敗だった。
3月10日、引退後も協会に残ることに向けて、年寄名跡「間垣」を取得する方向で調整を進められていることが、複数の関係者の話で分かった。
3月場所は初日に大栄翔に勝利して229日ぶりの白星スタートとなったが、2日目の土俵を終えた後に右膝に違和感を訴え3日目から途中休場。5場所連続19回目の休場となった。この場所2日目の取組で白星を挙げた際は、激しい痛みで膝を曲げることができず立ったまま懸賞を受け取ろうとしていた。
3月場所11日目の3月24日に鶴竜が引退し、2012年9月場所以来、再び一人横綱となる。同じ力士が一人横綱を2度経験するのは史上初である。場所後の同月29日に横綱審議委員会の定例会合が行われ、白鵬について厳しい意見もでたものの「注意」の措置を継続し、7月場所の結果により最終判断するという決議が全会一致でまとまった。「引退勧告」決議を避けた理由としては、1月場所の休場が新型コロナウイルス感染によるものであったこと、3月場所を2日だけでも出場したこと、八角理事長が師匠の12代宮城野から白鵬の現状について「覚悟を持って7月に臨むと言っておる」と報告を受けたことが挙げられる。
5月場所は怪我の影響で全休となり、途中休場を含めて6場所連続休場となった。休場の白鵬に対して伊勢ヶ濱審判部長は「ここまで休まれると(白鵬に)期待は出来ない」「出ていない人のことを考えて番付を決める訳ではないので」との厳しい言葉を残した。
7月場所は進退をかけての出場となり、伊勢ヶ濱審判部長は「出るからには横綱として出るわけだから、そこの責任感を持って最後まで頑張ってほしい。横綱だから優勝する気持ちでやらないといけない」と言葉を送った。初日の明生戦は掛け投げで白星となったが、この日NHK大相撲中継の解説を務めた北の富士勝昭は「相当不安大きい」舞の海氏は「全く余裕ない」と評した。だが中日勝ち越しを決めた頃になると八角理事長から「立派です。膝に不安がある中でね。勝ち方を知っている」「白鵬の場合、相手を見ながら取れる」と褒められた。その後も白星を重ね、千秋楽に全勝対決となった大関・照ノ富士を下して全勝で締めくくり、7場所ぶり45度目の優勝を果たした。優勝インタビューでは「これで(横綱)899勝。あと1勝で900勝。あと1勝を目指していきたい」と語り、また19日にオンラインで行われた千秋楽一夜明け会見では「信じられない。自分の相撲人生で上位に入るぐらい価値のある優勝だった」と語った。
一方、同日行われた横審の定例会では、14日目の正代戦(仕切り線から大きく下がって立ち会い、張り手を連発)、千秋楽の照ノ富士戦(肘打ちともとれる右エルボーを浴びせ、勝った際に派手なガッツポーズ)に対し、委員から非難の声が相次いだ。都倉俊一委員は「確かに全勝優勝は立派なもの。ただ、日本の国技でもある相撲はそれだけではないということを、どうやったらわかってもらえるだろうか」と話した。なお、7月場所の活躍を受け、横綱審議委員会の「注意」の決議は解除された。
7月21日、八角理事長は白鵬と師匠の12代宮城野を呼び、7月場所での土俵上の振る舞いについて注意を行った。
7月23日、かねてから熱望していた東京オリンピック開会式で披露する横綱土俵入りだが、叶わずじまいに終わった。また組織委員会関係者によると、聖火リレーの最終走者グループの候補として選出されてはいたが、力士は基本的に休場中のイベント出演はNGである事情から、6場所連続休場中の白鵬を事前の計画に盛り込むことは出来なかったようであると報じられた。
8月2日、国際柔道連盟会長のマリウス・ビゼール氏がTwitterに白鵬と大野将平との3ショットをアップロードし拡散されたことなどから、無観客開催である東京オリンピックの柔道を観戦したことが判明し問題ともなった。
9月場所は同部屋の北青鵬ら複数の所属力士が新型コロナウイルスに感染したことによって日本相撲協会のガイドラインに沿って部屋力士及び関係者の休場措置が執られて自身も全休となった。そして場所千秋楽の翌日の9月27日、報道各社は白鵬が引退する意向を固めたと一斉に伝えた。これを受けて日本相撲協会広報部長の芝田山(元横綱・大乃国)は記者団の取材に「白鵬から引退の申し出が(協会側へ)あった」と答えたが、現時点で白鵬の引退届などに関する書類は協会側へ提出されていないことも明らかにした。
年寄襲名
2021年9月29日、白鵬及び12代宮城野から引退届が日本相撲協会へ提出され、これを受けた9月30日の協会定例理事会に於いて白鵬の引退と年寄・間垣の襲名が承認されて正式に発表された。だが、その際に協会側は白鵬の現役時の不行跡を重く見て「相撲界のしきたりを逸脱しないこと」「先輩年寄(親方)の指導をよく聞くこと」などといった行動誓約書を提出させるという異例の措置を執った。引退の正式決定により結果的に最後となった45回目の優勝を全勝で決めた同年7月場所千秋楽の結びの一番(対照ノ富士春雄戦)が現役最後の取組となった。そのため引退の意向を示した際には「協会から猛批判された『らしさ全開』の勝利が現役最後の取組となった」とスポーツニッポンの記事で評された。なお11月場所の番付編成会議は9月29日であり、白鵬の正式な引退発表はその後の9月30日であったため、11月場所の番付には横綱として四股名が残ることになるものと見込まれていたが、11月場所の番付では白鵬の四股名は外され、その影響で同場所の番付に載った幕内力士の人数は定員よりも1人少ない41人となった。
10月1日に両国国技館で行われた引退会見では「ホッとした気持ち、迷いはなかった」とコメントし、7月場所10日目の白星で場所の二桁白星を達成したのを機に、膝の限界を理由として部屋関係者に引退の意向を示したと明かした。自身の引退後に1人横綱となる照ノ富士を指して「後を託せる」と評した。思い出の取組として2004年11月場所11日目の朝青龍からの金星を奪った1番、2010年11月場所2日目に稀勢の里に連勝記録を63で止められた1番を挙げている。
11月場所初日に自身初の親方としての本場所勤務となり、勤務後に「(初日前日の)土曜に何も考えずにいったのは初めてだった。全てが新鮮で、花道立ったときに不思議と手汗をかいていました。力士の体を見ていてほれぼれした。いいなと思いました」と振り返った。中日の自身初のNHK大相撲中継の解説では「この会場でしたからね。覚えてます。『勝ってしまった』と。ものすごくうれしいんですけど、申し訳ない気持ちで…。でも稽古つけてもらいましたし、勝って恩返しができた」と朝青龍から金星を獲得した当時の心境を明かした。対戦成績で21勝2敗と圧倒している髙安に関してこの日の放送で「一番強いと思う。重さもあり身体も強い。組んでよし、離れてよし。何で負けるのかな?」と絶賛。
12月3日、協会は間垣が幕内優勝の最多回数(45回)、横綱在位の最長期間(84場所)、幕内通算勝利の最多回数(1093勝)、大相撲通算勝利の最多回数(1187勝)、幕内全勝優勝の最多回数(16度)でギネス世界記録の認定を受けたことを発表した。5つのギネス認定を受けた間垣は、協会を通して「この度、ギネス世界記録の5枚の盾をいただきました。みなさまの応援のおかげであります。最後の最後に、うれしいご褒美をいただきました。今後も親方として精いっぱい頑張ります。ギネス世界記録をもらえるような弟子を育てていきたいと思います」とコメントした。10日、協会は2022年1月場所で2年ぶりに相撲博物館を開館し、間垣親方の特別展「69代横綱白鵬翔」を開催することを発表した。
『週刊文春』2022年2月3日号は、間垣が部屋創設のために2021年7月に閉店した浅草の老舗料亭「瓢庵(ひさごあん)」の土地と建物(報道当時の相場で、合計4億円)の購入を決めたと報じた。この報道を紹介した『FRIDAY DIGITAL』によると、予算面の都合で銀座への部屋創設を諦め、土地の広さ・建物の大きさなどの物件の条件が合わないということで日本橋での創設も断念したという。同記事のスポーツ紙担当記者の証言によると「日本の伝統文化が、色濃く残る地域で部屋を作りたかったそうです。元横綱として、日本を象徴するイメージの部屋にしたいと。海外から来る旅行客も、念頭に置いているみたいです。ガラスばりにして、誰でも稽古を見学できるようにしたいとか。母国モンゴルの人々に、胸をはって紹介したいのでしょう」とのこと。
宮城野部屋継承
2022年7月28日、師匠であった12代宮城野と名跡を交換して13代宮城野を襲名し、宮城野部屋を継承して部屋持ち師匠となった。8月2日、部屋を墨田区駒形の旧東関部屋跡地に移転。20日に初めて報道陣に稽古を公開し、「横綱、大関になった時と同じような緊張感とプレッシャー。常に2桁勝利が当たり前という世界に飛び込んだような気持ち」「(自身の師匠だった間垣が)私の脇に座るというのは不思議な感覚ですけど、アドバイスをいただきながら頑張っていきたい」と決意を述べた。
9月5日に開かれたオンライン記者会見で、翌2023年1月28日に両国国技館で自身の引退相撲を開催する予定を発表した。
9月場所11日目に相撲博物館で行われた「親方トークイベント」では「部屋から横綱、大関を出すのは一つの夢。3年以内に朝乃山。その3年後に宮城野から」と力強く目標を語った。
10月6日、両国国技館で行われた大相撲のファン感謝祭で1分間で色紙に押した手形の最多数を競う、手形早押しのギネス世界記録に挑戦し、これまでの記録85枚を大きく上回る104枚をマークした。自身のギネス記録はこれで6つ目。
2023年1月28日に引退相撲が開催された。オープニングセレモニーでは13代市川團十郎が歌舞伎「三番叟」を披露し、君が代はGACKTが独唱した。最後の土俵入りは太刀持ちに貴景勝、露払いに豊昇龍を従えた。最後の取組には長男と同志社大学相撲部の選手2人を指名し、長男との取組では押し出しに敗れた。断髪式に先立って部屋の力士8人による「幕下・三段目トーナメント」が開催され、幕下・川副が優勝。断髪式には280人が参加し、森喜朗や鳩山由紀夫といった日本の首相経験者のほか、スティーブン・セガール、GACKT、吉幾三、松山千春、原辰徳、YOSHIKI、豊田章男などが鋏を入れ、止め鋏は22代間垣が入れた。断髪後の整髪は野沢道生が担当。断髪式が終わると三女がメッセージを読み上げた。
2023年3月場所に落合哲也が十両に昇進。13代宮城野の子飼いの弟子としては初の関取。
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